試験採点期間が終わり、今日は終業式だった。ホームルームでは試験が返却され、通知表が同時に配られるという精神的にダブルパンチをくらう日でもあり、夏休みを目前にして活気づく教室を少しだけ憂鬱にさせる。けれどそれも一瞬で、もはや悲惨な成績ですら笑い飛ばせるほどの不思議な高揚感が夏休みにはある。教室中には弾けるような笑顔が溢れていた。
 成績は、まあこんなもんかな、というところ。英語は相変わらずだったけれど、他の教科は少しだけ順位も成績も上がっていた。最近は真面目だったことの成果なのかもしれない。

 午後からの部活にそなえて、部活のある者は昼食をとり始め、部活のない者はこれから始まる夏休みに嬉々として足取りも軽く帰宅していった。
 俺は荷物を教室に残して、図書室へと向かう道を歩いている。今日も名字はいないんだろうか、そう考えると自然と心は曇る。でも歩みは止めない。

 昨日ヒロトと話して、俺は名字が好きなんだと思った。本当はもう少し前から気づいていたのかもしれないけれど、気づくことから無意識に逃げていた。とことん馬鹿だと思う。死んでから好きになったなんて、こんな不毛なことがあるか?いっそ笑い出してしまいたい。
 何せ、ここのところあいつは姿を見せないんだし。

 そう思っていたから、図書室の扉を開けたとき見慣れた後ろ姿が目に入って、俺はアホみたいに目を丸くすることになる。


「………っ、名字!?」
「……あっ、南雲くん!おはよう」


 何事もなかったみたいに、いつもどおり名字はそこにいた。
 名字はひらひらと手を振ってにこにこと微笑んでいる。脱力するのを感じた。

「お前、どこ行ってたんだよ!?全っ然姿見せねーし!」
「心配してくれたの?」
「そりゃ、……いきなりいなくなったらするだろ」
「そっかあ……ふふ、嬉しいな」

 俺にとっての非日常はいつの間にか日常になっていて、だからつまり、名字がいないことが非日常なんだ。 だからこれで俺の日常が戻ってきたと、そう思った矢先のことだった。まだ俺は名字と一緒にいられると、安心できたそのとき。
 名字がひどくさびしそうに笑うので、身を潜めていたあの燻るような不安が増長した。名字は目の前にいるのに、何を不安に思うことがあるんだろう。


「南雲くん、わたしね……もう消えちゃうと思う」


 自分の心臓の音が聞こえた。
 全力疾走した後のようにどくどくと脈を打つ心臓が痛かった。名字は依然としてさびしそうに笑っていて、やめてくれと思った。お前にはあの緊張感のない、楽しそうに笑う顔のほうが似合ってる。何もなくてもいつも無駄に楽しそうに笑ってるんだから、今だってあんなふうに笑ったっていいはずだ。

「なんだよ、それ……」

 ようやく絞り出すように喉から出した声はひどく乾いていた。この部屋はクーラーが効き過ぎだ。乾燥してしまっていけない。

「最近ね、漫画も読めなくなっちゃったの。どうやっても手をすり抜けちゃうんだ。ブラック・ジャック、最後まで読めなくて不完全燃焼だよ」

 名字はそばにあった椅子に手を置いたけれど、まるでそこに椅子がないかのように、その手は椅子をするりと通り抜けてしまった。
 何て言ったらいいのかわからず、俺は立ち尽くしている。急に漫画を取り落として、驚いた顔をしていた名字を思い出した。

「本当はね、ずっとここにいたの」
「え?」
「昨日も一昨日もずっと、ずっとここにいたんだよ。でも、南雲くん見えなかったよね」

 俺は目を瞠るしかなかった。ここ最近、名字はいなくなったんじゃない。変わらずここにいたのに、俺が見えていなかっただけ。
 なぜ見えなかったのか、考えたくはなかった。けれど、きっとそれは名字が本当にいなくなることを示している。もうすぐ本当に、消えてしまう。
 一体名字はどんな気持ちで、目の前で名字を探す俺を見ていたんだろう。肩はゆすれないし、声をかけても、何も反応しない俺のことを一体どんな気持ちで。

「……だから、今日はお別れと、お礼を言いにきたんだ」

 何も言わない俺に対して何を言うでもなく、名字はどんどん勝手に話し出す。こいつがよくしゃべるのはいつものことなのに、今だけはそれが苦痛でしかなかった。

「まずは、死んじゃう前、仲良くしてくれてありがとう。南雲くんと隣の席になれて嬉しかったなあ。毎日すごく楽しかった!絵しりとりしたの覚えてる?南雲くん意外に絵心あってびっくりしたんだよ、ほら、怒られちゃうかもしれないけど、南雲くんなんか不器用そうだから。でも実際は結構器用だし、世渡り上手だよね?サボってもあんまり怒られないってそういうことじゃない?
 それから死んじゃった後。わたしのこと、見つけてくれてありがとう。みんなわたしのこと見えないし、気づかなかったのに、南雲くんが見つけてくれて本当に嬉しかったんだよ。わたしのわがままもたくさん聞いてくれて、もう、本当にお人好し。普通は断るよ。それができないのが南雲くんなんだけど。そこにつけ込むようなこと言っちゃって、ごめんね。ずっと重荷だったよね。本当にごめんなさい。
 夏祭りもね、本当は行きたかったんだ。だから南雲くんが、1年生の子との約束断って花火買ってきてくれたとき、泣きそうなくらい嬉しかった。あの子にはちょっと申し訳ないけど……本当に本当に、嬉しかったんだ。
 南雲くんは、幽霊のわたしにたくさんの嬉しいことをくれて、それがまた、嬉しくて。もうありがとうじゃ表せないくらい、感謝してます。本当にありがとう。……わたしはいなくなるけど、ずっと南雲くんのこと応援してるよ!部活も勉強も頑張って、あ、授業はサボったらだめだからね」


 呆れるくらい、よく回る口だ。


「……お前、なんで笑ってんだよ」
「え?」

 ようやく口を挟むことができたけれど、情けない声しか出せなかった。名字は不思議そうな顔をして、それでも微笑んでいる。

「なんで、笑ってんだよ。消えるんだぞ?何もかも、なくなっちまうんだぞ」
「ええ、でも、お別れくらいは笑顔でいたいでしょ?」
「そういうことじゃねーよ。消えたくないとか、悲しいとか辛いとか苦しいとか、もっと、あるだろ」
「ないよ」
「嘘つくな!」
「嘘じゃないよ!だって、仕方ないもん。どうしたって、やっぱりわたし死んでるんだもん。仕方ない」
「仕方なくねえよ!俺は、俺が、嫌なんだよ」
「え?」

 名字の肩をつかんだら、驚いたように名字は俺を見上げた。細い肩だと思った。今こうして名字に触れられるのに、なんで名字の肩は透けているんだろう。誰か嘘だと言ってほしかった。

「嫌なんだよ。俺はずっと、お前が死んだことは仕方ないって思ってたよ。かわいそうな奴だって同情した。でも違ったんだよ。俺はそうやって考えることから逃げてただけで、本当はずっと苦しかった。悲しかったんだ、お前が死んだこと。仕方ないってあきらめれば、悲しまずに済むと思ってたんだ。でもそんなの違う。そうやって気持ちばっか押し殺したって、もっと辛いだけなんだよ。だから俺は、お前に消えてほしくない。もう決まってることだとしても、それは嫌だ」
「……南雲く、言ってること無茶苦茶、」
「わかってるんだよ、無茶苦茶なこと言ってるってことくらい。だけどどうしようもないだろ、だって、俺はお前のこと好きなんだから。どうしても好きなんだよ、悪いか」

 名字の瞳が、完全に見開かれた。ビー玉みたいにまんまるいそれは、3回瞬きをする。
 名字は、俺と同じなんだと思った。笑ってやり過ごせば、何も辛いことはない。上手く隠してしまえば辛くもない。自分が存在しないことを突きつけられたって、笑えばいい。そうやって仕方ないと感情に蓋をした。
 俺は初めて死んだ名字に会ったときのことを思い出していた。ここでお前は机に突っ伏して寝てたって言っていたけど、もしかしたら本当はあのとき、泣いてたんじゃないのか?

「……だからお前も、無理しなくていい。悲しんだって、泣いたっていい。感情押し殺したままなんて、それこそ未練が残るだろ」

 見開かれていた瞳が元に戻って、名字はしばらく黙り込んだ。そしてようやく口を開けて、小さくつぶやくような声を出した。

「……本当に、誰にも見つけてもらえないって思ってたの」

 それはとても弱々しかった。

「友達に話しかけても全然気づいてもらえなくて、目の前でわたしが死んだこと悲しんでるの。ここにいるよって、言っても聞こえない。お母さんが、いつまでもわたしはお母さんたちの子だって言ってくれたのも、嬉しかったけど辛かった。だってもう話せないのに。もう気づいてももらえないのに。なんでわたし死んじゃったのかなあ?なんで死んでもここにいるのかな?だったら、何も知らないまま死んでたほうがよっぽどよかった。そう思うのに……南雲くんがわたしのこと、見つけるから。南雲くんがお人好しだから。一緒に過ごせて嬉しくて楽しくて、そう思う気持ちまで、否定できなくて。だから、消えたくないって、思っちゃって。もっと南雲くんと一緒、にいたかった。幽霊でも、いいから、そばにいたかっ、」


 堪らず抱きしめたら、ほんの少しだけ温かい体温が伝わってきたような気がした。
 ポロポロ、ポロポロ、音もなく流れ落ちる涙を見ていたら、もうどうしようもなかった。こんなに悲しんでいるのに、望んでいるのに、どうにもならないなんて世界って奴は一切慈悲の心がないらしい。俺はヒロトの神さまみたいな笑顔を思い出して、泣きそうになった。

「でもこんなこと言ったら、後悔すると思って。わたし、死んだこと、絶対後悔するって」
「そんなの俺が代わりに全部背負い込んでやるから」
「南雲くん」
「俺が忘れないから。お前のこと、絶対忘れない。約束する」
「なぐもくん、」

 なんて陳腐な言葉だろうって我ながら思う。でもそれでよかった。こんなの、名字以外、世界の誰一人聞いちゃいねーんだから。

「南雲くん、好き。好きだよ、大好き」




 そんなの、俺だってそうだ。









 しばらくの沈黙のあと、名字はそっと顔を上げて俺から離れた。思わず腕をつかんだけれど、つかめなかった。空を切った右手は、所在なく元の位置に戻る。それを見て名字は悲しそうに笑った。

「……なんかスッキリした」
「……そうかよ」
「多分わたしは、南雲くんと会うために死んだあともこうしてここにいれたんだろうね」

 さびしそうなのは変わらないけれど、それでもふっと微笑んだ名字の笑顔は、ようやく名字本来の笑顔に戻ったように思えた。目が真っ赤になっている。目もとをこすろうとするのでやめさせた。

「腫れて余計ブサイクになんぞ」
「よ、余計って!余計とはなんだ!」
「だってお前の今の顔超ひでえ」
「うるさいな!思ってても言わなくていいんだよそういうことは!」

 怒ったように顔を背ける名字に、思わず笑ってしまう。もう、名字の体を通して向こうの本棚がくっきりと見えていた。

「もう南雲くんってば、せっかく超イケメンだったのに台無しだよ」
「は?」
「いやー、すごいかっこよかった。どうしても好きなんだよって、あの情熱的な愛の告白」
「ばっ、うるせーよ思い返してんじゃねーよ!」
「そっかー、南雲くんわたしのこと好きだったんだあ、そっかあ」
「うるっせニヤけんなうぜえ」
「言葉の暴力!」

 黙らせようと思って、ついデコピンの構えをする。そうしたところではっと気づいた。このままやっても、きっともう名字には効かない。きっともう永遠に、触れられない。
 それでも俺は、そのまま手を名字の額の前に持っていって、ピンと指を弾いた。手応えもないし、あのばちっという痛そうな音も響かない。

 それは名字も同じだろうに、泣き笑いのような表情を浮かべて、名字は言うのだった。




「……もう、痛いよ。南雲くんのジャイアン」



 なんだ、それ。







 そんなわけのわからない言葉を残して、次に瞬きをした瞬間には、名字はもうそこにはいなかった。何もなかった。香りも温もりも、気配も全部が、もうそこには何もなかった。

 俺はふと日差しが差し込む窓に目を向けた。陽の光に反射したほこりが、ちらちらと宙を待っているのが見える。地球温暖化促進派のこの図書室で作動するクーラーの音が、気がついたように聞こえてきた。

 もう名字はどこにもいなかった。

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