夏と羊と神様とわたし | ナノ


 蛍光灯はついているのにどこか暗い廊下の天井をぼんやり見上げながら、わたしは小さいころ迷子になったときのことを思い出していた。
 そのときは誰もわたしのことを見つけてくれないまま、自分はこの場所に取り残されてしまうんじゃないかという漠然とした不安が募って大泣きした記憶がある。さすがにもう大泣きはしないけれど、この歳になっても迷子になるというのはやっぱりどことなく不安になるものだし、というかこの歳になっても迷子になるなんて思ってもいなかった。しかも暗く重い雰囲気の漂う無機質なこの建物は、その不安をさらに増長させる。

 わたしはただトイレに行きたかっただけなのに。しかも目的のトイレには、まだたどり着けていない。
 円堂について行けばよかったなあとため息をこぼしても、悲しいほどに状況は変わらなかった。


 先日、雷々軒のおじさんに勝負を挑んで見事勝ってきたらしい円堂は、おじさんを本当にサッカー部の監督にしてみせた。ここ数日はおじさん改め響木監督の指導のもと練習に励み、今日の地区大会決勝戦という日を迎えたわけだ。
 試合会場となる帝国学園は、どう見ても中学校ではなかった。まるで軍事要塞のように厳めしく巨大なそれを見て、わたしは初めての練習試合の日に帝国が乗ってきた軍艦を思い出した。そして納得がいく。
 サッカーグラウンドもひとつのスタジアムとして存在していて、無人の観客席が妙な威圧感を放っていた。今頃みんなはそこでアップを始めているだろう。早く戻らなければいけないのに、わたしはといえば絶賛迷子中だった。

 気を取り直してしばらくうろうろしていると、廊下の角から誰かの話し声が聞こえてきた。これは道を聞くチャンスだと足を踏み出した瞬間に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んでくる。

「私が邪魔なんでしょう!?」

 春奈ちゃんだ。
 わたしは驚いて目を瞠る。春奈ちゃんのこんな感情的な声を、わたしは初めて聞いた。その後の会話はここからじゃうまく聞こえない。聞き耳を立てるのは忍びないけれど、春奈ちゃんがいるのならトイレの場所を聞きたい。でもどう考えても、今は出るべきタイミングではない。空気なら読める。きっと今は、出てはいけない。

「……っ他人よ!!」

 どうしたものかと壁に寄りかかって腕を組んだ途端にそんな声が聞こえたと思ったら、目の前を春奈ちゃんがものすごいスピードで走り抜けて行った。突然の出来事にわたしは目を白黒させる。春奈ちゃんはわたしに全く気づいていなかったのか、そのまま廊下の向こうに消えてしまった。
 一瞬だけしか見えなかったけれど、もしかしたら、春奈ちゃんは泣いていたかもしれない。追いかけようか、それとも追いかける前に春奈ちゃんが誰と話していたのか確認しようか、足踏みをしていたら、また唐突に予想外の人物が曲がり角からやってきた。

「……」
「……」

 言葉も出ない。鬼道だった。

「……え、鬼道…?」
「……なんだ」
「い、いや」

 春奈ちゃんが話していた相手は鬼道だった。
 一体なぜ、春奈ちゃんと鬼道が?結びつかない2人にひたすら頭にハテナを浮かべて、だけど春奈ちゃんの悲しそうな言葉を思い返したら、あるひとつの答えが弾き出された。

 ――私が邪魔なんでしょう!?
 ――……っ他人よ!!

 この2人は、もしかして。

 たどり着いた答えにわたしは息をのんだ。もしかしたらわたしは、とんでもない修羅場に立ち会ってしまったのかもしれない。
 訝しげに見てくる鬼道にわたしは視線をしばらく泳がせたけれど、すぐに観念した。

「あ、あの…ごめん、2人の話、ちょっとだけ聞こえちゃった……ごめんなさい」
「…そうか。別に構わない」
「えっ、あ、いやでも!元気出して鬼道!何があったかは知らないけど、謝ればきっと春奈ちゃんも許してくれるよ!振られちゃったわけじゃないんだし!……あれ、でも、他人よってことは…もう別れようってことなのかな……?…あ、あああ!ごめんわたしってば無神経なことを…!本当にごめん!大丈夫、言葉のあやだよきっと!ね!いやーでも、ビックリしたなあ、まさか2人が付き合ってるとは……」
「……お前、何を言ってるんだ?」

 わたしが必死に謝って慰めているというのに、鬼道は心底呆れた表情でわたしを見ていた。わたしは一体何故呆れられているのか、甚だ見当もつかない。鬼道は大きな溜め息をひとつついた。

「お前は本当に何と言うか……あれだな」

 曖昧に濁されたあれ、が指す言葉が何かわからないわたしは、鬼道の方こそ何を言っているんだろうと思った。ゴーグルの奥の瞳は、困ったように、疲れたように揺れている。


 


「俺と春奈は兄弟なんだ」

 事情を話して鬼道にトイレまで案内してもらうことになったはいいものの、その道中鬼道がとんだビックリ発言をぶちかましてきたものだから、わたしは驚いてずっこけそうになった。

「えっ…えええええ!?兄弟なの!?付き合ってるんじゃなくて!?」
「なんでお前はそう勘違いしたんだ」

 わたしは信じられない、という思いで、まじまじと鬼道を見つめる。明朗快活ガールの春奈ちゃんと寡黙ゴーグルマントの鬼道が、兄弟!あの会話はてっきり痴話喧嘩かと思ったのだけれど、全くもって違ったらしい。完全にわたしの早とちりだ。
 あれ、でも――名字が違う。声には出さなかったけれどわたしがそう疑問に思ったことに気づいたのか、鬼道はそのまま話し続けた。

「幼いころに飛行機事故で両親を亡くして、俺たちは施設で過ごしていたんだ」

 そこで帝国の学園長にサッカーの才能を見出され、学園長が鬼道を鬼道財閥の養子に推薦してくれたらしい。でも春奈ちゃんは別の家庭に引き取られることになって、2人は離れ離れになってしまった。しかも養父である鬼道の今のお父さんに春奈ちゃんと連絡することを禁止されて、2人の間に壁ができてしまったそうだ。
 鬼道は春奈ちゃんと一緒に暮らすために、フットボールフロンティアで3年連続優勝を果たす代わりに、春奈ちゃんのことも鬼道家に引き取ってもらうようにお父さんと約束をした。そのために必死に学園長についてきたけれど、卑怯なやり方で勝って春奈ちゃんを引き取るのが嫌だから、学園長のやり方に背いて、正々堂々自分たちのサッカーをすることに決めたらしい。

 でも裏を返せば、雷門が勝てば、鬼道と春奈ちゃんは離れ離れのままになってしまうということだ。

「……突然こんな話をして悪かった」

 何故か謝られる。わたしは首を横に振りつつ、じっと鬼道の揺れるマントを見ていた。
 ――知らなかった。のは当たり前なのだけれど、それでもそんなことがあったなんて、と思わずにはいられなかった。最近春奈ちゃんの様子がおかしかったのは、帝国との試合が間近に迫ってきたことと、帝国と、それから鬼道への不信感が募っていたからなんだろう。
 とても悲しいすれ違い。たった2人の兄弟なのに、もどかしい壁が2人を遮ってしまう。

「…鬼道」
「なんだ」
「今までゴーグルマントくんとか変なあだ名つけたり、帝国感じ悪いなあとか思ったりしててごめんね……」
「(……)…ああ」
「でも、鬼道が春奈ちゃんのことすごく大切に思ってることと、サッカーに対して一生懸命なことたくさん伝わったよ。だから、今日の試合頑張ってね!一生懸命な鬼道の姿見たら、春奈ちゃんにも絶対、伝わると思う」

 わたしには兄弟がいないから偉そうなことは何も言えないけれど、それでも春奈ちゃんと鬼道は世界にたった2人の兄弟なんだから、すれ違ったままじゃ悲しいと思うのだ。

「俺は敵だぞ。応援してどうする」
「えっ…あ、そっか。うーん、でも、敵とか味方とか関係なくて、わたし春奈ちゃんのこと大好きだし、鬼道のことも友達だと思ってるし、うまくいってほしいから!ね!」

 何が、ね!なのか。自分でもよくわからなかったけれど、鬼道が呆れたように笑いながらもありがとう、とはっきり口にしたので、嬉しくなって頬が緩んだ。長い間、春奈ちゃんのために1人で頑張っていた鬼道の思いが、どうか報われますように。
 ――そのためにも、決勝戦は何事もなく行われなくてはいけない。鬼道が正々堂々と勝負をしたいと言ってくれたように、帝国の学園長の好きにさせてはいけないのだ。

「わたしも、決勝が始まるまでに罠とかないか色々探してみるね」
「それはいいが…気をつけろよ」
「大丈夫!体が丈夫なのだけが取り柄だからね」

 そういうことじゃないと言いたげな鬼道の視線から逃げるように、帝国って迷路みたいだねえと話題を変える。するとすぐに鬼道が着いたぞ、と言って歩みを止めた。目の前にはトイレがある。
 今更ながら男子にトイレまで案内してもらうのはなんだか恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになって、思わず謝った。染岡の呆れた表情が、想像にたやすい。


 


 何か仕掛けられていないか、辺りを見回しながらスタジアムまで戻る道を歩いていると、観客席の方に出た。やっとここまで来れたと一安心しつつ、いつの間にか押し寄せていたかなりの数の観客にぎょっとする。広いスタジアム内の観客席がぎっしりと埋まっていた。さすがは中学サッカー界最強の帝国学園、ファンも大勢いるようだ。
 ふと前方に円堂と秋ちゃんの姿を見つけて、わたしは安堵しながら2人に近づいた。なんで2人はここにいるんだろう?

「円堂!秋ちゃん!」
「あ、名前ちゃん!遅かったね。お手洗い混んでたの?」
「う、ううん迷子になってた…でも鬼道に会って案内してもらってたんだ」 
「鬼道に?」

 鬼道の名前を出すと、2人はちょっと驚いた表情をする。どうしたの?と首を傾げていたら、円堂が説明をしてくれた。
 円堂はトイレに行ったその直後、なんと帝国の学園長に接触したらしい。彼は円堂に鬼道と春奈ちゃんの関係を打ち明けて、雷門が勝てば、2人はずっと一緒にいられないままだということを告げたそうだ。その後秋ちゃんと合流して、2人も同じように会場内を見て回っていたらしい。
 帝国の学園長が円堂を動揺させようとしている魂胆は読み取れるけれど、それにしても卑怯だ。わたしは舌を巻く。

「わたしもさっき、鬼道に春奈ちゃんとのこと聞いたんだ。正直、こればっかりはどうしようもないけど…でも鬼道は正々堂々、自分たちのサッカーがしたいって」
「ああ、そうなんだよな…鬼道は卑怯な手を使って、音無を引き取りたくないんだ。そのために死ぬ気で頑張ってる。だからあいつのプレーはすごいんだ」
「鬼道くんのこと、よくわかってるのね」

 円堂は、鬼道のことを信じている。秋ちゃんはそっと微笑んで、しかしすぐに真剣な表情になった。

「でも、戦える?正々堂々と戦って雷門中が勝ったら、鬼道くんと音無さんは……」
「それでも、気持ちには気持ちで応えなくちゃ…それが本気の相手への礼儀。俺は正々堂々、本気で戦う!」

 円堂ならそう言うと思っていたと、安心すると同時に、わたしは言い知れぬ不安が拭いきれない感覚がたまらなく嫌だった。
 円堂と鬼道なら、きっと素晴らしい試合ができると思う。外的要因からの妨害がなければ、の話だ。鬼瓦刑事から聞いたイナズマイレブンの悲劇の話が頭をかすめる。

 お願いだから、何もしてきませんように。祈るような気持ちで手のひらをぐっと握る。わたしは内心緊張していた。


20140118
20141219 加筆修正
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