夏と羊と神様とわたし | ナノ


「東くんの薄情者……」

 わたしは教室掃除中のクラスメイトとじゃれ合っている日直の相方をじとりと睨みつけた。深いため息をひとつ落とす。机の上にはまだ日付しか書かれていないほぼ真っ白なページが開かれた日誌が1冊。指先で進まないシャープペンシルをくるくる回し続けて、ぼとりと落としたのはこれで3回目。半田が授業中に息をするように華麗にペンを回しているのを見て以来必死に練習をしたけれど、わたしはペン回しが下手くそだ。

「聞こえてるぞ」
「しかも地獄耳……」

 教卓の近くに立っている東くんの位置から、教室の後ろのほうに座っているわたしの小さなつぶやきなんて聞こえるはずがないと思って油断していた。東くんは耳ざとい。「早く書けよ日直」とにやにやした笑いを浮かべている。トーキョーシティーボーイって呼んでやろうか、と思ったけれど前にそれを言ったら容赦なく教科書で頭を殴られたのを思い出してやめた。
 席が隣同士のわたしとクラスメイトの東くんは今日の日直だった。2人で日直なのだから、仕事は分担するのが妥当というものだ。黒板だって上のほうは東くん、下のほうはわたしが消していたし、ノートの返却やプリントの配布だって半分ずつにして配っていたじゃないか。なのにどうして日誌はすべてわたしに押し付けるんだろう!それは東くんがジャンケンで負けた方が日誌を書くという提案をしてきたからなのだけれど。それでわたしが負けたからなのだけれど。あのときパーを出したのが大変悔やまれる。

 今日だって部活があるのだ、こんなところでうかうかしてられない。この間の練習試合で帝国学園に勝利してやっと廃部を免れて、これから本格的に練習をしようと良いスタートダッシュを切ったところなんだから。
 だからまずは今日の授業内容を思い出すところから始めなければいけない。1時間目は国語だった。漢字テストをして、教科書を読んで、72ページ3行目からの主人公の心理描写の表現方法についてを考えて……と、思い出さなくてもいいわりと具体的なことまで思い出していたら、突然自分の名前が呼ばれたので反射的に顔を上げる。

「つくしちゃん。どうしたの?」
「大変だよ!雷門さんが呼んでる。名字名前さんに用があるって」

 血相を変えてわたしの席までやってきたのはつくしちゃんで、真ん丸な目をめいっぱい開いて興奮した様子でわたしにそう告げた。そんなつくしちゃんの様子に東くんもクラスメイトとじゃれるのをやめて、何事かとこっちを見ている。

「雷門さん?って誰?」
「生徒会長だよ!理事長の娘の!」

 信じられない、という表情でかぶりを振る。教室の前の開かれた扉に目を向けると、その雷門さんは茶色いウェーブがかったふわふわの長い髪を耳にかけているところだった。とんでもなく美少女。そしてつくしちゃんの言葉を聞いて、少し前に染岡たちと話したことが思い返される。理事長の娘で、わたしたちと同じ2年生で、雷門夏未さん。サッカー部を廃部にしたがっているというあの……!?
 そこまで考えると急に緊張してきて、一体わたしなんかに何の用だろうとあわあわしていたら持っていたシャープペンシルを落とした。いいから早く行きなって、という目をしながらつくしちゃんがそれを拾ってくれる。わたしはそれに頷きながら席を立った。

 間近で見ると更に美少女だった。じろじろ見るのは失礼だと思いながらもついつい目がいってしまう。東くんたちが息をひそめてこちらの様子をじっと伺っているのが感じ取れて少しだけ窮屈だ。
 雷門さんはくるりと上向きにカールしたまつ毛に縁どられた大きな瞳でわたしを捉えた。思わず胸が高鳴りそうになる。雷門さんは微笑んで初めまして、と口にした。

「雷門夏未です」
「はっ、はじ、初めまして名字名前です!よろしくどうぞ!」

 思いっきり噛んだな。しかも片言だね。そんな東くんとつくしちゃんのひそひそ声が聞こえてくる。ちょっと2人とも黙っててほしい。

「早速だけれど、少し頼みたいことがあるの。あなたたちサッカー部に連絡したいことがあるから、これから部室に全員を集めてもらえないかしら?」

 肝心のキャプテンの円堂くんが見当たらないのよ。
 雷門さんの頼みは率直で実にシンプルだった。思わずあっハイ、と何も考えずに即答したあとで、連絡したいことって一体なんだろうかと首を傾げる。まさか今度こそ本当に廃部にされるんじゃないだろうかというわたしの考えを読み取ったのか、それともわたしの顔に出ていたのかはわからないけれど、雷門さんが「次の練習試合の相手が決まったのよ」と言ったのでわたしはええええっと声に出して驚いた。

「もう!?だってついこの間帝国と試合したばっかりなのに」
「だっても何も、もう決まったことだもの。不服かしら?」
「いえとんでもないです!ありがとうございます!」

 雷門さんの手を握ってブンブン振りまわすと、「おめでたい人ね」と少し呆れたような目で見られたけれど、美人からの視線なら大歓迎だ。
 そうと決まれば早速部室に行こうと張り切るわたしの肩を誰かがつかんだ。その指先にはわりと強めに力がこめられている。振り向けばトーキョーシティーボーイが5月に吹く爽やかな風のごとくまぶしい笑顔を浮かべていた。こんな東くん見たことない。

「えっ…どうしたの東くん?」
「どうしたのじゃねーよ、お前日誌どうする気?」
「……あ、」

 忘れていた。
 先程向けられた視線とは桁違いの呆れた視線を雷門さんのいる背後からジワジワと感じる。理事長の娘さん直々にお越しいただいたのになんたる失態!思わず頭を抱えたら、東くんは笑顔のままきっぱりと「じゃあ頑張れよ」と言い切って、わたしの肩をポンと叩いた。その奥でつくしちゃんが苦笑いをしているのが見えた。何度でも言おう、東くんは薄情者だ。とりあえず3秒後に謝罪の言葉を思いつく限り述べて、雷門さんに全力で頭を下げようと思う。3分間だけ待ってください。


 


 見事に3分で日誌を書き上げたわたしは、雷門さんと一緒に部室へと向かっていた。途中でジャージに着替え終わった秋ちゃんと合流したとき、わたしと雷門さんが一緒にいるのを見て秋ちゃんの目が驚きでまん丸く見開かれたのがちょっとおもしろかった。
 部室が見えてきたので、「あれが部室だよ」と指さすと雷門さんは「本当にあんなところで活動してるのね」と眉をひそめた。確かにお嬢様が足を運ぶような場所ではない。今すぐにでも彼女の足元に上質なレッドカーペットを敷きたいくらいだ。まあ古いしかび臭いし埃っぽいけど、なんか貫録あるよね!という意味不明なフォローをしていたら部室に着いた。

 秋ちゃんが部室のドアを開けると、その場が一気に静まり返った。1人だけ立ち上がった染岡が張りつめた雰囲気を漂わせている。これは確実に何かあったなと踏んだのだけれど、円堂が曖昧にごまかした。
 雷門さんの姿を見るとみんなはぎくりとした表情をする。雷門さんは入るなり顔をしかめて「臭いわ」と言い出したので、わたしは堪えきれず吹き出した。汗とかびと埃の匂いがするこの部室はわたしたちにとってはもう慣れたものだけれど、客観的に嗅いだらきっと臭いんだろう。今度ファブリーズ持って来よう。

「こんな奴なんで連れてきたんだよ!」
「話があるって言うから…」

 案の定染岡が突っかかるけれど、雷門さんはちらりと一瞥しただけですぐに前に向き直った。次の練習試合の相手が決まったわ。その一言に室内がどよめいた。みんなはとても嬉しそうだ。

「相手は尾刈斗中、試合は1週間後よ。もちろんただ試合をやればいいというわけではないわ。今度負けたらこのサッカー部はただちに廃部」
「ま、またかよ…」
「ただし勝利すれば、フットボールフロンティアへの参加を認めましょう。せいぜい頑張ることね」

 そう言って、栗色の髪を靡かせて雷門さんは部室を出て行った。ローズの香りがふんわりと鼻に届く。
 負けたら廃部、ということにやっぱりそう簡単にはいかないなあと思ったけれど、フットボールフロンティアという言葉を聞いてみんなは目の色を変えた。とてもやる気に満ち溢れている。前回と違って負けることに捉われていないので、成長したなあなんて少し感動した。


 そう言えばお礼を言い忘れた、とふと思い立って急いで部室を出ると、すぐに雷門さんの後ろ姿を見つける。呼び止めると、不思議そうな顔をして振り向いた。

「…何か?」
「あ、ええっと、今回の件、本当にありがとう!みんなもすごく喜んでるし…雷門さんのおかげだよ」
「はあ、……本当におめでたい人ね」
「勝てるかどうかはわからないけど、負けるかどうかもわからないってことは、この前の試合で証明されたからね」

 だからありがとう、と言えば、雷門さんはまつ毛をぱちぱちさせたあと拗ねたようにそっぽを向いた。颯爽と歩いていく背中に夏未ちゃん、またね!と声をかけたら、気安く呼ばないでだなんて怒られるかと思ったのだけれど何も言われなかったので、これはきっとつまり、名前で呼んでもいいということ?思わず笑みがこぼれた。
 これが俗に言うツンデレかあ、と呟いた独り言をいつの間にか部室から出てきていた松野に聞かれていて、「……は?」と訝しげな目で見られたのはまた別の話。


20130213
20140902 加筆修正
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -