近々関東を直撃すると言われていた大型の台風はなんの気まぐれかふいっと進路を変えてしまい、しばらく続いていた雨風も止んですっかり元の暑さに戻ってしまった。蝉が残り少ない命を嘆いて必死に鳴いているが、こうも暑い中大音量で鳴き声のオーケストラを聞かされる身にもなってほしい。ただでさえ暑くてイライラしているのに蝉が鬱陶しいので窓を閉めてしまいたかったが、クーラーが故障している今、それは自殺行為に等しい。お日さま園の子供たちは数に限りのある扇風機の前を巡って争い、敗者は少しでもと涼を求めてぬるい廊下の上を這いずり回っている。わたしもその中の一人であった。

「暑い……死ぬ……」
「お前なんつー格好してんだ…女だろ、パンツ見えんぞ」

 晴矢が団扇でへろへろと扇ぎながらわたしのだらしない格好を注意する。いやこれショーパンだし。パンツ見えないし。変態か、思春期め。
 団扇で扇ぐように頼んだら嫌だの一言で切り捨てられた。かわいい幼なじみが頼んでいるんだからちょっとくらい動いてくれてもいいだろうに。

「アイス食べたい…」
「さっき風介が最後の一個食ってたぞ」
「はあ!?何個食べんのあいつ…ていうかわたし一個も食べてない…」
「知るかよ。買ってくりゃいいだろ」
「外出たくない……」
「それは同感」

 とりあえず風介は腹壊して苦しめ。

 わたしが心の中で風介の腹を呪っていると、ヒロトが空になったコップに麦茶を補充しにやってきた。これだけ暑いのだからもう少し血色が良くなってもいいと思うのだけれど。冷蔵庫を閉めるとこちらに気づいたヒロトが小さく溜め息をついた。

「名前、なんて格好してるの。女の子だろ」
「ヒロトまで……だって暑いんだもん……」

 いつになったら業者の人は来てくれるのだろうか。夜まで直らないようだったら、もう雷門の子たちの家に泊まらせてもらおう。それくらい暑い。

「ヒロトこそこんな暑いのに部屋こもって何してるの」
「何って、宿題だよ。早めに終わらせたほうがいいだろ」
「うわあー優等生…今の聞いた晴矢、もう宿題だって」
「アホ。俺だってもう手つけてるっつーの」
「うそ!?晴矢の裏切り者!!」

 風介が着々と進めているのは知っていたけど、晴矢は絶対まだ手をつけていないと思ったのに。途端にわたしはやるせなくなった。なんだか置いてけぼりをくらった気分だ。実際そうなのだけれど。行き場のない思いを晴矢にぶつけていたら団扇ではたかれた。

「この機会に名前もやろうよ。教えてあげるから」

 ヒロトはにっこり笑ってそう言った。







 結局わたしはヒロトの無言の圧力におされて大人しく数学のワークと筆箱を持ってヒロトの部屋にやってきた。ヒロトは英語の課題をやっているようだが、もう少しで終わるんだというその言葉通り、残り数ページのところまで進めていた。なんて優等生なんだ。
 わたしは筆箱からシャーペンを取り出してワークの表紙を開いた。当たり前だが真っ白である。盛大に溜め息をつきたい衝動を抑えて問題に目を通した。たしかこのあたりの範囲は4月に習ったところだ。うろ覚えながらもなんとか解き進めていく。汗で紙が手にへばりつく感じがたまらなく不快だった。

 しばらくするとヒロトがシャーペンを置いてふう、と息を吐いた。どうやら終わったらしい。

「名前、どう?」
「2ページ終わった。疲れた」
「まだ2ページじゃないか」

 ヒロトは呆れたように笑う。せめて10ページまでは一区切りとして終わらせよう、とヒロトは言うけれど、それだいぶあると思う。それに何より、暑い。
 わたしは下敷きでぬるい風を送りながらその場に仰向けに寝転んだ。あっ、こら、とヒロトがたしなめるけれど、もうわたしの中の元々なかったやる気がさらに消沈してしまった。クーラー直ったらがんばるから、今日はもう勘弁してください。

 ヒロトは困ったように眉を寄せてわたしから目をそらした。涼しい顔をしているように見えるけれど、ヒロトの額には汗がじんわり滲んでいる。恐ろしいほどに悪い顔色も少しだけ赤みをさしているようだ。

「……ヒロト?」
「…………」
「…どうしたの?顔赤いよ。えっまさか熱中、」

 症?と、最後まで言えなかったのは、突然ヒロトがわたしに覆いかぶさるようにして手をわたしの顔の横についたことに吃驚して、わたしが口を閉ざしたからであった。顔が近い。初めはふらついて倒れでもしたのかと思ったけれど、ヒロトの表情を見る限りどうも違うようだ。焦っているように見える。

「…ちょっと、本当にどうしたの」
「…名前がそんな格好で無防備に寝っ転がるから、その、」

 ごめん、欲情しちゃった。

 ヒロトはそう言って困ったように笑った。わたしはヒロトの言っている意味がわからなくて唖然としている。口が開いているかもしれない。なんだって、欲情、だと?欲情の意味を頭の中で必死に検索していると、ヒロトがわたしの着ているキャミソールの肩ひもに手をかけてゆっくりとずり下した。うお、わ。頭の端っこの方で、これは危険だと赤いランプが点滅している。

「ヒロ、ト」
「名前、みんないるから、静かにね」

 何を言っているんだこいつはと思う暇もなく、いともたやすく唇を奪われた。誤解しないでいただきたいが、わたしはヒロトとは同じお日さま園で育った家族のような幼なじみという関係であって、決して恋人同士になった記憶はない。しかも今のはわたしのファーストキスであった。一番の思春期はこいつである。一瞬ぶん殴ってやろうかと思ったが、それがどんどん深いものになっていくにつれてそんな気は失せてしまった。知らなかった。わたしは付き合ってもいない男にキスされてもお構いなしのビッチだったのか。

 ようやく呼吸ができた。もうわたしの脳みそはどろどろに溶けているに違いない。思考がなにも働かなかった。ヒロトの顎を伝って汗がぱたりと落ちた。愛おしそうにわたしを見つめて微笑むヒロトに、心臓がどきりと揺れる。

 机に置いてある麦茶が入ったコップの氷が、カランと音を立てる。


「ヒロト、」


 名前を呼んだら、それが合図だった。



20120831
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