今まで生きてきた人生十何年の中で、「気まずい」と感じる場面はいくつもあった。例えば友達と喧嘩をしたとき、誰も見ていないと思って盛大なあくびをかましていたら反対側にいた人とバッチリ目が合ってしまったとき、電車の中で友達に借りた漫画を読んでいたらおもしろい場面に出くわして思わず吹き出してしまったとき。
 多分考え始めたらきりがないくらいたくさん出てくるけれど、そのどれもが後になって思い返してみれば全然大したことないものばかり。だからきっと今がどんなに気まずい状態だって、明日になれば笑っちゃうくらい軽い出来事になっているはずだ。

「………………」
「………………」

 いや、明日はさすがに難しいかもしれない。3日くらいすればきっと、必ず大丈夫だ。と思う。

「………………」
「………………」
「………………」
「………………」

 ……やっぱり1週間は必要だろうか。うん、1週間だ。

「………………」
「………………」
「…………名字さん」
「っ、はっ、はい!?」
「あのー…大変申し上げにくいんですけど……ぱんつ、見えてます」


 10年はかかるかもしれない。





 事の発端は、そう、そもそもわたしのジャンケンの弱さにあった。昼休みに、負けた人が全員分のジュースをまとめて自販機で買ってくるという至ってシンプルなルールに則って行われたジャンケン大会。あっさり負けて、全員からジュース代を預かり、小銭で重たくなったブレザーのポケットをじゃらじゃら言わせて、自販機まで渋々歩く。じゃらじゃら、じゃらじゃら。憂鬱な音だ。
 一人一人の飲みたいジュースを指折り復唱して、たどり着いた自販機の前に棒立ちになる。今更負けたことを悔やむつもりはないし、わたしも早くお弁当が食べたいからさっさと買ってさっさと帰るつもりだった。
 急いた気持ちで少々雑にポケットに手を突っ込んで小銭をひとつかみ。ばっと手を出したときには既に小銭は手のひらからこぼれ落ち始めていて、あっまずい、と思ったときには派手な音を立てて地面に散らばる小銭たち。

 ああああ…!と声にならない声を上げて数秒の間呆然としたけれど、重い腰を下ろして小銭の回収作業に移る。ついてないなあ。
 自販機の下に入り込んでしまった小銭を救出するために、少々汚いけれど地面に膝をつき頭を下げて、低い体勢で自販機の隙間をのぞき込む。すぐ手前に10円玉が二枚あるのを確認してほっとしたのも束の間、ずいぶんと奥に100円玉がきらりと鈍い光を放っているのを見つけて、わたしは己の腕の長さはどのくらいかと頭の中で考えてみた。けれどそんなものはしっくりこなかったので、とりあえず手を伸ばしてみる。届かない。

 躍起になって手を伸ばす。これでもかというほど手を伸ばす。しかし無情にもあと数センチの距離がそれを阻む。
 余分なお金は持ってきていないし、一度教室に戻って友人たちに謝って自分のお金で買いにくれば済む話なのだけれど、本当に今にも手が届きそうな、目と鼻の先にある100円玉を見ていると、もっと頑張ればとれるんじゃないかという思いが邪魔をしてなかなか諦められずにいた。これがいけなかった。

 地面にへばりついて自販機の隙間に手を突っ込むその姿はさながら不審者。そして100円玉救出に必死なわたしは、周囲を確認することをしばらく忘れていた。
 不意に視界の隅に少し汚れた上履きが入ってきた。一瞬思考が停止する。

「………………」
「………………」

 見上げれば、クラスメイトの浅羽祐希くんが無表情でわたしを見下ろしていたのでした。地面から見上げると人ってこんなに大きく見えるんだなあと的外れなことを思ったのは、無意識のうちに現実逃避をしていたのかもしれない。

 しばらく放心状態で浅羽くんを見つめること数十秒。この状況だけで十分恥ずかしいのに、極めつけは次の一言。ぱんつ、見えてます。死のうかと思った。

「!?!?!?」

 光の速さで体勢を直して思わずその場に正座する。パンツ見られた…!浅羽くんに!!
 動揺で変な汗をかいてきた。死ぬほど恥ずかしいし、もういっそ殺してほしかった。何も言わない浅羽くんとの空気が絶妙に気まずい。わたし、今日なんのパンツ履いてたっけ?思い出せない。
 とにかくこの空気が耐えられないわたしは何か言おうと口をパクパクさせて、意を決して息を吸い込んだ。

「おっ、おみっ、お見苦しいものをお見せしてしまい大変、申し訳ありませんでした!!」

 勢い余ってそのまま地面に手をついて頭を下げる。

「ちょ…やめてください土下座とか」
「いやなんかもうこのまま顔を上げたくないというか上げられないというか!!穴があったら入りたいというか!!いっそ殺して!!」
「(どうしようめんどくさい……)」

 このまま地面が割れてその隙間に入り込めたらどんなに気が楽だろうか。埋まりたい。安寧の地へ行きたい。

 たかがパンツ、されどパンツだ。見られたのが橘くんとかだったら笑ってごまかせたのに、何故浅羽くんなのだ。きっとわたしは自販機の下に小銭がないかどうかパンツが見えていようとなりふり構わずチェックするような意地汚い女だと思われているんだ……あ、自分で言ったくせにものすごく凹む。わたしの恋、終わったな…そもそも浅羽くんはものすごくモテるんだから、わたしには初めから終わりしか用意されていなかったんだろうけれど。
 まさかこんな終わり方になるとは……と諦観していたら、「あの」という低い声がやけに近くで聞こえて、咄嗟に顔を上げてしまった。

 浅羽くんがわたしの前にちょこんとしゃがみこんで、何を考えているのか読めない瞳でこちらを見ていた。

「あー…俺、あんま見てないんで、安心してください」
「お、………お、おう……」
「(おう……?)……お金、落としたんですか」

 チラ、と自販機の隙間を見て浅羽くんが言う。わたしが挙動不審になっているのには何も言わなかった。頷いたわたしに、浅羽くんがしゃがんだまま自販機の下をのぞき込んだ。ふわりと浅羽くんから柔軟剤のいいにおいがする。こんなことにときめいている場合ではないのだけれど、ついつい反応してしまう。

「あ、100円……」

 そうつぶやくと、浅羽くんは手を伸ばして自販機の隙間に手を突っ込んだ。えっ!と吃驚していたら、次の瞬間には100円玉が乗っていた手のひらがこちらに向けられていた。
 はい、そう言ってわたしを見る。

「あっ…ありがとう!!ございまする!!」
「(……ございまする…?)いえいえ」

 浅羽くんがわたしの手のひらに100円玉を乗せてくれた。どうしようこの100円使いたくないなあ、と考えていたら、ジュース買わないんですかと促された。わたしは慌てて立ち上がる。

「さっき教室で名字さんがジャンケン負けてるの見て、お金ぶちまけそうだなって思ってたけどまさか本当にぶちまけるとは…」

 カーディガンのすそをいじりながら浅羽くんがそう言うので、わたしは膝や手を払いながら苦笑する。もっと清楚でお淑やかな女子アピールをしたかったものだが、それも後の祭りだ。自販機の下に小銭がないかどうかパンツが見えていようとなりふり構わずチェックするような意地汚い女とは思われていないようで、そこだけは安心した。
 でもそろそろ、カーディガンは暑いんじゃないかなあ。お金が全部あるのを確認して、律儀に順番を守ろうとわたしの後ろに並ぶ浅羽くんを見やる。

 ピッ、ガコンガコン。お金を入れてボタンを押すだけの簡単な作業を5回繰り返す。

「ごめんね浅羽くん、お待たせしました」
「いえ」

 浅羽くんは何を買うのかなと見ていたら、パックの牛乳のボタンを押していた。なんだかさっき(わたしが一方的に)パンツパンツ騒いでいたのが嘘みたいに静かだ。そもそも浅羽くんと二人きりという状況になったのが初めてだし、そんな貴重な機会をパンツで潰したことを思うと数分前の自分を張り倒したい衝動に駆られた。

「……浅羽くん、どうか今日のことはきれいさっぱり忘れてね…二度と思い出さないでね…」

 項垂れながら言うわたしに、パックにストローを差していた浅羽くんが何かを考えるふうに宙を見つめていた。整った横顔。彼はこのあと教室に戻って、橘くんや塚原くんたちと一緒にお昼ごはんを食べるんだろう。
 両手に持った冷たいジュースたちの温度を手に感じながら、わたしは浅羽くんの言葉を待った。

「…わかりました。水玉さん」


 両手に持っていたジュースが、ぼとぼとと落ちた。




「あーあ…またぶちまけた」

 そう言って硬直するわたしの足元に散らばったジュースを拾った浅羽くんは、本当に一瞬だけ、楽しそうに笑った。わたしは先ほどの言葉の意味と今の浅羽くんの表情にどうしようもなく熱を上げさせられて、くらりと倒れてしまいそうになるのを堪えるのに精一杯だった。浅羽くんの嘘つき。


20140611
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