トイレに入った瞬間トイレットペーパーがないことに気づいて、補充しようと替えが保管してある戸棚を開けたのだがそこにもなく、母親にたずねたところ「あらやだ忘れてたわ〜」と反省の色を微塵も感じさせない声色と表情で尚且つ「今から買ってきてくれる〜?」という要求をかましてきた。しかし今トイレに行きたいのはわたしなので、トイレットペーパーがないと困るのもわたしなのだ。ぐずぐずしている間にも尿意は迫ってくる。「ついでにお醤油も買ってきてちょうだい〜」という母の声に憤りを感じながらも、仕方なくわたしは財布を握り家を飛び出すのであった。





 上下運動の揺れが膀胱に響いて正直きついと思うほどにわたしの限界はそこまで来ていた。まず閉店間際のスーパーに駆け込み真っ先にトイレットペーパーをつかんだあと調味料コーナーに向かった。いつもうちで使っている醤油はどれだったかと考える暇も惜しく、適当に選んだ醤油のボトルを握りしめレジまで早足で進む。これじゃなくてその隣に置いてあった醤油がうちのものだったような気がしてきたが、戻るつもりはなかった。事は一刻を争うのだ。
 会計を済ませてレジ袋に醤油を無造作に突っ込んで駆け足で外に出ると、ドンッと思い切り顔から誰かに激突してしまった。ふがっという間抜けな声と共にそのまま尻餅をついて、鼻の痛みがどうこうよりも地面にぶつかった衝撃で余計にトイレに行きたくなったことが重大である。

「す、すみません大丈……名字?」

 聞き覚えのある声で名前を呼ばれて顔を上げると、同じクラスの喜多が驚いた顔でわたしに手を差し伸べていた。わたしもぶつかった相手が喜多だったことに驚いてあ、と声を上げた。喜多はそのままわたしの腕をつかんで立ち上がらせてくれた。

「悪い、よそ見をしながら歩いていたから…怪我はないか?」
「あ、うん!こっちこそごめん、ありがとう」

 外の様子も見ずに建物の中から突然飛び出したわたしのほうに確実に非があるのだが、喜多の対応は優しかった。もう夜の9時を過ぎているのに喜多はジャージ姿だった。こんな時間まで練習をしていたのか。真面目なキャプテンである。その上優しくてイケメンというオプションがついてくるのでそれはそれはモテるのだ。

「これから帰るのか?お詫びに家まで送るよ」
「えっいいよそんな!わたしが悪いんだから気にしないで」
「でもこんな時間だし女の子には危ないだろ」

 喜多はにっこり微笑んでわたしの手にある荷物を自然に持ってくれた。超イケメン。喜多超イケメン。トイレットペーパーなんか持たせて申し訳ない。
 でもここで問題がひとつ発生する。わたしは今すぐにトイレに行きたい。だから全速力で走って帰ろうと思っていたのだが、喜多が送ってくれるとなるとそういうわけにもいかない。せっかくの好意を無碍にすることもいたたまれない。でも中3にもなってそんな失態をおかすわけにはいかない。
 わたしの膀胱があとどれくらい保つだろうかという見積もりをしていると、歩き出した喜多が口を開いた。

「そういえば、こんな時間にお遣いか?」

 そこでわたしは素直に現在に至るまでの一連の出来事を告白した。ドン引きされることは覚悟の上だし、いっそのこともうトイレキャラが確立してもいい。喜多もこんな今にも漏らしかねない女を隣に歩かせるなんて嫌だろうし、申し訳ないけれどさっさと帰らせてもらおう。
 そう思っていたのだが、喜多は顔色ひとつ変えずに「ああ、ならうちに寄っていけばいい。すぐそこだから」と言った。

「いやいやいや!!いいよほんとに!!」
「気にしなくていい、本当にすぐそこなんだ」

 わたしはものすごく悩んだ。しかし生理現象にかなうはずもなかった。本当にごめんと全力で謝って、大人しく喜多家に寄らせていただくことにした。トイレを借りるがために喜多の家に寄るだなんてファンの女子に殺されてもおかしくはないレベルだ。ただの馬鹿丸出しである。しかし恥じらっている余裕はなかった。





 本当に喜多の家はすぐそこにあって、それにも関わらずうちまで送ろうとしてくれていた喜多は本当に優しい。喜多のお母さんが快く迎えてくれて、有り難くトイレを借りた。無事事なきを得た。心から感謝の意を述べると喜多は大袈裟だなと笑った。
 喜多のお母さんは女の子のお客さまが来るなんて嬉しいわ、とお茶まで出そうとしてくれたのだが本当に申し訳なくそこまでしていただくわけにはいかないので、丁重に断って帰ることにした。今度改めてお礼をしよう。
 喜多の今度こそ送るから、という言葉にとんでもないと首を振ったのだが、喜多と喜多のお母さん二人の有無を言わさぬ雰囲気に根負けして大人しく頷いた。一生分の感謝を捧げなければならないと思った。


「サッカー部ってあんな時間まで練習してるの?」

 歩きながら他愛もない話をしていたのだが、ふと思いついたことを口にすると喜多の表情が曇ったのがわかった。なんだかまずいことを聞いてしまったのかもしれない。

「…いや、部活自体はいつも通りに終わったんだ。そのあと自主練をしていたから」
「自主練?さすがキャプテン、えらいね」

 わたしがそう言うと喜多はますます元気がなくなってしまって、どうしたら良いのかわからなくなってしまった。何がいけなかったのだろうかと考えるが、思い当たる節がない。

「…き、喜多?どうしたの?元気ないけど…」

 素直に聞いてみることにした。喜多は自嘲するかのように笑って、情けない話なんだ、と言った。

「俺たち、負けただろ?この間の、最後のホーリーロードの試合」

 喜多の所属する天河原中サッカー部は、先日行われたホーリーロードの大会で三回戦目で敗退した。わたしも友達と観戦に行ったが、あと少しのところで負けてしまった。だけど良い試合だったのだ。

「俺たち3年生にとっては最後の大会で、俺ももうキャプテンじゃなくなる。全力でやったし、良い試合だったとも思う」

 でもなんだか、思い出すと悔しいんだ。

 喜多はぽつりぽつりとつぶやくように言葉を紡いでいった。正直わたしと喜多は少し仲が良いくらいのクラスメイトというだけで、こういうときになんて言ったら良いのかわからない。運動部に入っているわけでもないからスポーツ選手の悔しさなんてきっと本質まで理解できないだろうし、気の利く言葉がすらすら言えるほど頭の回転も速くない。

「……で、でも喜多生きてるし…大丈夫だよ!」
「…え?」
「生きてサッカーやってればいくらでもチャンスあるよ!まだ中3だよ?そりゃこれから受験勉強とかしなくちゃいけないけど、高校行ったらもっと強くなって勝ちまくって、またキャプテン任されて、西野空とか星降とかと楽しくサッカーやってるって!元気出して!」

 喜多はぽかんとした表情でわたしを見ている。わたしにはその表情がハア?お前なに言ってんの?と言っているようにしか見えず、今言ったことを後悔した。絶対アホだと思われている。
 しばらくの沈黙のあと、喜多がふふっと笑みをこぼした。

「そうか…そうだな。ありがとう名字」
「えっいやそんなお礼されるようなことはなにも…ていうかわたしがお礼する方で」
「いや、名字のおかげで元気が出たよ。だからありがとう」
「め、滅相もないです…」
「好きな奴から励ましてもらって元気が出ないわけがないさ」
「そ、そう…?ならよかったけど」

 ちょっと待て。

「今なんて言った?」
「?好きな奴から励ましてもらって元気が…」
「そこ!それ!!えっ喜多わたしのこと好きなの?」
「ああ、なんだそんなことか」

 そんなことって。あまりにも堂々としている喜多を見ていたらテンパっているわたしが間違っているように思えてきた。名字も存外鈍いよな、と喜多は苦笑いをした。だってそんなの、わかるはずないじゃないか。
 気づけばわたしの家の前に着いていて、立ち止まったわたしを見て喜多はここか、と言った。

「今日はありがとう。じゃあまた明日」

 喜多は爽やかに手を振って踵を返し、夜の闇の中に溶け込んでいった。わたしはしばらく彼の消えていった夜道を眺めていた。言おうと思っていたまた明日は消化できずに喉の奥で留まっている。
 とりあえず、家に入ったらお母さんにお遣い代を請求しよう。それから明日どうやって喜多に接すればいいのかを考えようと思う。



20121212 企画キャプテン!様提出
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