ああ、金魚だ。不意に空を見上げたらゆるりゆるりと尾ひれを動かす金魚が見えた。橙色のふっくらした体が空を我が物顔で泳いでいる。その姿はたいそう美しかった。そうして、はっとして、口をきゅっと結んだ。これは誰にも言ってはならないことなのだ。記憶の底に沈む暗い過去が蘇るのを必死で止める。考えるな、考えるな。こんなもの、見えてはならないのだから。
自分の目に映る物が、他人からすれば恐怖の対象なのだと知ったのは、学園に入ってからだった。それまでも幾分、異端に見られていた節はあったが、まだ気づいていなかった。

入学して一番初めに話した子の背中にやさしそうな老婆がいた。いつものようにぺこりとお辞儀をすると、その子は不思議そうな目をしたので親切心で「君のおばあちゃんに挨拶をした」と告げれば、不思議な目は恐怖の色に染まった。それからすぐに、みんなから避けられ、キモチワルイと言われるようになった。ひどいときには石を投げられた。傷ついたと言われれば、確かに傷ついた。だから記憶の奥深くに沈めた。でもただそれだけだった。涙を流したわけでも、恨んだりもしなかった。ただ何故自分にだけ見えているものをキモチワルイとされているのかが分からなかった。あんなにも美しいのに。だからこんな世界を見ている自分は選ばれたのだと、勝手に自分本意に解釈して、傷ついてない振りをするのだ。それが随分と楽だった。もう一度空を見上げたら、金魚はいつの間にか消えていて、空はただただ青々としていた。

俺はきっと、この世界に愛されている。


何度目かは忘れたが、いつものように心の中で呟く。そうして、水っぽい目尻を擦る。あくまで目が痒いときにするように。泣いているだなんて、誰かが見ている訳ではないけれど、そう思われたくないからだ。
首を左右に傾けるとパキッとなった。さっきまで空を見上げていたからだろう。さて、委員会にでも行くかと考えて、もう一度首をひねっていると足に何か違和感を感じた。ゆっくり見ると、目があったその違和感は「にゃあ」とかわいらしく鳴いた。


「かわいいな、お前」
「にゃあ」


すりすりと足にすりよって甘えるそれに手を伸ばす。喉元を撫でてやると目を細めて、ゴロゴロ鳴いた。そうかそうか、気持ちいいのか。もっと撫でてやろうと、猫の前にしゃがもうとすると、茂みから「あーっ!!」っと言う馬鹿でかい声に遮られた。な、なんだ?


「いたいた!許さねぇーぞ!観念しろ!」


ずんずん近寄って、唖然としてる俺なんかお構い無しに、茂みから出てきたやつは、さっきまで撫でていた猫の首を思いっきり掴んだ。


「あ、ちょ、そんな乱暴に…ッ!」
「んん?」


そう俺が声をかけたことでやっと猫の首を掴んだやつは俺の存在に気づいたのだった。嘘だろ…仮にも忍者のたまごだぞ…。果たしてこれは俺の存在に気づけなかったこいつが悪いのか、それとも俺の存在感のなさが悪いのか。追求はよそう。
それにしたって、いささか猫への扱いが乱暴すぎやしないか?扱い慣れていると言われれば、そうなのだろうけど…。


「お前、ひさびさ…」
「くくちだ!くくち!」


怒鳴るようにそう言えば、そいつはあまり悪びれる様子もなく「あー、くくちね!久々知!」とボサボサの頭を掻きながら、何がおかしいのか、からからと笑っていた。見るからに俺と同じ学年なのに!(と、言うわりには俺もこいつの名前を知らないが)多分、こいつは俺の嫌いなタイプだ。直感的にそう思った。早いとこ逃げ出そう。くるりと踵を返すと、「あっ」なんて言われる。無視無視!これ以上居たら、何言われるかたまったもんじゃない。


「なあ、一個聞いていいかあー?」


無視してずんずん歩いていれば、大きな声で叫ばれた。さすがに聞いていいかと問われて無視するのはあんまりかと思い、振り返る。まあ、一個だけなら、聞いてやらんこともない。
振り返って見た先のあいつの肩に金魚が一瞬、見えたような気がした。


「お前ってなんか見えんの?」


それを言われた瞬間に、ぶわりと血が沸き立つような、そんな感覚を感じた。体内を巡る血は熱いのに、手先はびっくりするほど冷たい。いや、落ち着け、俺。いつも、言われてきただろ、そんなこと。今さらじゃないか。落ち着け、落ち着け、落ち着け。


俺はきっと、この世界に愛されている。

はずだろ?


ああ、なのに、なんで。こんな報われない思いばかり。
自分の感情に土足で踏み込まれている気がした。ずっと隠して、蓋をしてきた感情を引っ掻き回されてるような、そんな気がした。あいつの顔が見れない。


「おい、大丈夫か?」


自分から爆弾発言をかましておいて、と思ったが、焦ったような顔で、倒れそうになる体を支えられた。
その肩にははっきりとさっきの金魚が見えた。


「、金魚…、」
「へ?金魚?」


しまったと思ったが、もう遅かった。きょろきょろとあいつに見えるはずなのない金魚の姿を探す。


「見えるんだな、やっぱ」


こいつも、俺のこと軽蔑すんのかな?
真っ直ぐな瞳に負けて、こくんと頷けば、にいっとそいつは笑顔になる。え、?


「どんな金魚だ?」
「橙色、の、丸いや つ…」
「そっか!綺麗だよな」
「…ああ、…とっても」


からからの喉から絞り出すようにいえば、俺の答えに満足したのかあいつはにこにこ笑った。そう、笑ったんだよ。その笑顔がなんだか眩しくって。辺り一面、いや、世界中が、きらきらして見えたんだよ。
足元でにゃあって猫が鳴いて、あいつの肩で金魚が跳ねた。
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