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 認識の違いというのは、どんな場面においても発生するものだ。
 
 例えば高校時代一番よく遊んだクラスメイトは、と訊かれたら、何人かの顔がぼんやり思い浮かんで、最終的に残るくらいの、その程度。
 特別仲が良かったかと訊かれたら、首を傾げ、少し悩んだ後に別に普通じゃないかと答えるくらい、名前にとっては他の友人達と変わらないーーオブラートを引っ剥がして言えばありふれた関係であり存在だったのだが、向こうからすればそうではなかったらしい。





 ピコン、と電子音が鳴ると共に赤色のカバーをつけたスマホが震える。眠気まなこを擦りながら手を伸ばし、何度かベッドの上で手を動かしようやく見つけたスマホを手に取り画面を見れば、見慣れた連絡アプリの通知が表示されていた。慣れた動作でパスコードを解いてアプリを立ち上げれば、予想通りの人物からメッセージが届いていた。

『おはよう、起きてるか?』
『今日はめちゃくちゃ良い天気だぜ!』
『でも午後から雨が降るらしいから、折りたたみ傘でも持って行った方がいいんじゃねえかな』

(……天気予報?)寝起きの頭でそう思いつつ、指をスライドさせて返信しようとしたものの、途中で力尽きて枕に顔を突っ伏し、結局そのまま二度寝してしまった。
 それから数十分後にスマホのアラームが鳴って、相変わらず覚醒しない頭のまま朝の支度を終え、某トラのキャラクターがプリントされた青いパッケージのシリアルをサラサラと流し込み、電車の中でうっかり寝過ごしながら辿り着いた大学の退屈な講義中、ふと目についた赤いカバーのスマホを見て、そういえば朝に連絡がきていたような、とここでようやくメッセージの存在を思い出した。
 この講義は担当講師が緩いことで有名で、出席さえしていれば単位が取れるため人気があり、室内は人で埋まっている。その中でまともに講義を聞いている生徒などごく一部で、大体の人間は各々好きな作業に没頭していた。名前もその中の一人だ。なので気にせずスマホを手に取り、連絡アプリを立ち上げて、目的の人物へのメッセージを打ち込む。

『すまん寝ぼけてて返信忘れてた』
『おは』

 すると数分もしないで既読がつき、返信がきた。

『昔から朝に弱いもんな』
『傘は持ってきたか?』

 傘、と少し考え、そういえば午後から雨が降るとかなんとか言っていたな、と朝のメッセージを見て思い出し、鞄の中を確認してみたが目的のものは入っておらず、『忘れた』『教えてくれたのに活かせず申し訳ない』とメッセージを送る。その後に泣きながら土下座をしているフクロウのスタンプも送った。このスタンプはいつだったか今やり取りをしている友人がプレゼントしてくれたものだ。何故プレゼントしてくれたのかは分からないが、可愛らしいフクロウが様々なリアクションをとっているスタンプは汎用性が高く、連絡無精ーーというより文面を考えるのが苦手ーーの名前は有り難く使用している。
 すると今度は数秒も経たずに既読がつき、フクロウがサムズアップしているスタンプの後に、『気にすんな』『それより帰り大丈夫か?』『今日そっち方面に仕事があるから、もし時間が合うなら迎えに行くぜ』と言葉が続いていて、流石にそれは、と返信するために動かしていた指が止まる。
 これで相手が他の誰かなら、気軽に「頼むわ」なんて返せるのだが、なんせ相手が相手なのだ。いくら元クラスメイトとはいえ、ただの一般人の名前が安易に呼び出していい立場の人間ではない。(昔から有名だったけど、今じゃこのイケブクロのーー)「名前君、何故こうなるのか説明できるかな」

「え」

 頬杖をついていた顔を上げて前方を見れば、にこにこ顔の講師が黒板を示して名前を見ていた。この講義で質問されることってあったっけ、と思いながら慌ててノートと参考書を見る。「たまにはこちらから問いかけてみるのも大事だと言われましてね」相変わらずにこにこ笑って生徒からすれば傍迷惑なことを言ってのける講師に内心恨み言を漏らしながら、右耳から左耳に受け流していた講義の内容を必死に思い出している内に返信することをすっかり忘れてしまった。





 気怠い講義も終わり、清々しい開放感に包まれていた体は、外の天気を見た瞬間に鬱屈としたものへと早変わりした。
 分厚い灰色の雲に覆われた空からは大粒の雨が降り注ぎ地面を濡らしている。幸い風はそこまで強くないようだが、その分雨の勢いが強いため、傘を持っていたとしても下半身や鞄がずぶ濡れになりそうだ。(うげ、あいつの言った通りだわ……)アスファルトを殴りつける雨粒を見ながら昼間のやり取りを思い出す。と同時に、迎えに行く云々の話をしている途中じゃなかったかと慌ててスマホを取り出した瞬間、雨音にも負けない黄色い悲鳴が耳に突き刺さった。
 何があったのかと顔を上げて声がした方を見れば、色とりどりの可愛らしい傘の群れーー言い方は悪いが名前にはそう見えたーーが何かを取り囲むように円形に集まっていて、その中心にシンプルな黒い傘を持った誰かが立っている。傘の群れに埋まらないほどの長身だ。

「あ」

 それが誰なのか名前が認識した瞬間、まるで小さく漏れ出た声が聞こえたのではと思うようなタイミングで向こうの誰かも顔を上げ、名前の姿を視界に捉えた。

「っ、名前!」

 ぱっと花が散るような笑みを浮かべ、周囲の傘の群れを押しのけて走り寄ってきた姿が、いつだったか動物系のテレビで見た大型犬と重なる。

「山田」

 山田。
 山田一郎。
 まるで書式のお手本にあるような平凡な名前とは裏腹に、某アイドル事務所のアイドル達すら顔負けの整ったルックスと声とスペックを兼ね備えた、このイケブクロ・ディビジョンの顔。
 名前の高校時代のクラスメイトで、当時は一緒に行動することが多かった友人の一人であり、朝のメッセージから始まって昼間までのやり取りをしていた件の相手である。

「まじで来てくれたんか」
「近くで仕事だったし、この雨だから傘を持ってないと帰るのが大変だと思ってな」

 にっ、と白い歯が眩しい笑顔を浮かべた一郎は、そのまま名前の隣に来ると、「悪い、ちょっと離れててくれ」と言って傘を閉じ水気を飛ばし始めた。その姿を見ながら名前は口を開く。

「わり、途中で返信終わってて」
「講義中だったんだろ? 気にすんなよ」
「本当は断ろうと思ってたんだけど……」
「え」

 名前の言葉を聞いた一郎がぎし、と石のように固まる。心なしか顔色も悪くなっていた。
 その姿を見て、何か変なことでも言ったかと不思議に思いつつ、「いや、仕事終わりって言ってたから、迷惑だろうなあと」と言葉を続けた。

「あ、ああ、そっちか!」
「そっち?」
「いや、なんでもねえ! それに本当に気にしなくていいぜ。大変な依頼じゃなかったし、そもそも俺が勝手にしたことだから。あー、むしろ名前の迷惑になってねえか……?」
「いや、俺は大助かりだけど」
「そうか! ならいいんだ」

 にこにこ笑いながら頷く一郎を、名前はやはり不思議そうに見ていた。
 何故そんなに嬉しそうなのか分からない。分からないが、まあ気分を害するよりは良いだろうと気にしないことにして、「車で来たのか?」と訊ねる。

「おう。車っつーか、軽トラだけど」
「あー、あのフクロウのやつか」
「それそれ」

 会話に区切りがついたタイミングで雨脚が少し弱まってきたため、そろそろ帰れそうだな、と考えたと同時に「そろそろ行くか」と一郎が傘を開いた。

「あれ、一本しかねえの?」
「え?」
「傘」

 朝に傘の話題を振ってきたのだから、てっきりもう一本持ってきていると思っていたが、一郎の手にはシンプルな黒い傘が一本握られているだけでそれ以外は見当たらない。

「あ、あー、その、忘れてきちまって……どうせ家まで送るんだしいいかと思ったんだが……よく考えてみりゃあ駐車場まで行くのに濡れるよな、悪い」
「いや、迎えに来てもらっただけ有難いって。むしろシート濡らすことになるけど大丈夫か?」
「それなら問題ねえよ」
「傘は、」
「名前さえ嫌じゃなければ二人で入って行くってのはどうだ?」
「? 俺は入れてもらう側だから構わねえけど……」

 食い気味の提案に首を傾げつつ問題ないと頷けば、一郎はぱっと表情を明るくして「そうか! なら行こうぜ!」と建物の外に出た。
 その後を追いかけて傘に入った名前は、二人の様子を見ていた周囲の人間が「あの山田一郎が珍しい顔で笑っていた」と驚き、一体どんな関係なのかと噂していたことに気づいていなかったし、仮に気づいていたとしても、何故そんなに驚くのかと疑問に思ったことだろう。

 何故なら名前と会話する時の一郎は、いつだってこの調子なのだから。





 山田一郎にとって、名前という人間は特別な存在だ。
 無二の親友と言っても過言ではなく、名前がいなければ今の自分はいなかったかもしれないと、本気でそう思うくらい名前には感謝している。

 それなりにワルイお付き合いの多かった学生時代。出自の関係から普通の学生生活なんて送れないと思っていたし、最低限高校を卒業さえすれば良い、それよりもチームでのラップバトルの方が楽しい、なんて考えていたくらいだった。
 事実学校にいるよりもチームとして活動している時の方が一郎は楽しかったし、生き生きとしていた。自分を認めてくれる存在が周りにいて、尊敬できる人がいて、頼れる仲間がいる。その環境が心地よかった。
 それでも、いわゆる普通の学生生活とやらに憧れがなかったかと言われれば話は別で、例えば街中で自分と同年代の人間が楽しそうに遊ぶ姿を見て思うところがなかったわけではない。
 だがそれは自分には手に入らないものだと諦めていたし、その空白を補うものが一郎の周りにはあったため気にしないようにもしていた。

 その認識を変えたのが名前だ。


『山田くん、ほいこれ』

 唐突に手渡されたノート。
 記名欄には目の前のクラスメイトの名前が書いてあるため一郎のものではない。
 何故自分のノートを渡してきたのかと眉を寄せる一郎に、表情を変えないままクラスメイトはーー名前は言った。

『ここ数日休んでた分のノートだよ。今度テストやるらしいから、範囲分かんねえとやべえじゃん? 山田くん、ただでさえ出席日数が危ういんだし』

 言い終えると同時に、にっ、と笑みを浮かべ、ノートを押しつけてきた名前に、一郎の体が石のように固まる。
 これまでそんなことをしてくれた人間がいただろうか。否、いない。いるわけがない。
 今でこそイケブクロ中の人間から慕われている一郎だが、当時は不良として名を馳せ、どちらかと言えば怯えられるか避けられることの方が多かった。
 学校生活ではそれが顕著で、基本的に一人で行動している一郎に話しかけてくる人間は少なく、仮に数日休んでいたとしても進んでノートを貸してくれる人間なんていなかった。
 それなのに、一郎から頼んだわけでもないのに、名前は自らノートを差し出してきたのだ。しかも一郎を心配して。

『余計なお節介かもしんねえけど、山田くん忙しそうだから補習とか勘弁だろ? 幸いノートさえ取ってれば問題ない内容らしいから、とりあえず写して見てれば大丈夫じゃねえかな』

 ノートはテスト前までならいつ返してくれてもいいから、と言って立ち去る背中を、一郎は呆然と見ていた。
 一郎の側から離れた名前の周りにはすぐに人が寄ってきて、慌てたように声をかけている。どうやら一連のやり取りを見て名前が一郎に脅されてるんじゃないかと心配しているらしい。
 名前はいつもクラスの中心にいる男だった。彼の周囲には常に人が集まり、廊下を歩けば彼に気づいた人間が声をかけてきて、また人が寄ってくる。老若男女問わず、と言ってもいい。同級生の男子生徒はもちろん、女子生徒も、先輩も後輩も関係なく、教師すらも名前がいれば必ず一声かけてくる。
 そんな人間が悪い意味で有名な不良にノートを貸すなんて、確かに俺も当人じゃなかったら心配するな、と未だ衝撃が抜けきらない頭でぼんやりと思いながら聞いていたのだが、次の名前の一言に、一郎は目を見開いた。

『なんもねえって。ただ、せっかく同じクラスになったんだから、仲良くなりてえし、一緒に進級してえじゃん? それに山田くん、悪いヤツじゃねえだろ』

 からからと笑いながら言った一言は、きっと名前からすれば大したものではなかったのだろう。
 しかし一郎にとってはまさに青天の霹靂とも言うべき出来事であり、暗い道に一筋の光が差し込んだような、そんな気持ちになった。
 同時に名前という男がただのクラスメイトという認識から気になる個人へと変わったのは言うまでもない。
 それでも、その時はまだ特別ではなかった。
 大袈裟な言い方かもしれないが、たった一回きりの奇跡だと思っていて、滅多にないことだから感覚が麻痺しているだけだと思い込もうとした。
 ーー『また』を期待してはいけない。
 ーーたった一回きりだから『奇跡』なのだ。
 そう思わなければ、与えられた優しい手を、向けられた心を、情けなくも求めて、縋ってしまいそうだったからだ。
 名前という男は誰しもから慕われるだけあって優しい人間だ。だから気まぐれにクラスで孤立している不良にも手を差し伸べたのだろう。それか教師に頼まれたのかもしれない。
 どちらにせよノートを返せば終わる関係だ。
 これ以上関わることはないだろうと、そう思っていた。

 しかし一郎の予想に反して、名前はその『一回』以降も一郎に話しかけてきた。
 教室に入ればよく通る声で挨拶をしてきて、そのまま近くまで寄ってきたかと思えば、前の席に腰かけてたわいもない話題を振られる。
 慣れない状況に一郎が戸惑ってるのに気づくと、申し訳なさそうな顔で「悪い、俺うるさかった?」と言ってくるから、戸惑いながらも、そんなことはないと緩く首を振った。
 すると名前は、「なら良かった。あ、でも迷惑だったら言ってくれよ」と笑うから、迷惑なわけがないと、今度は勢いよく首を横に振る。
 そんなやり取りを何回か繰り返す内に、最初は上手く会話ができなかった一郎も普段の調子を取り戻してきて、その頃には放課後の予定がない時に一緒に遊んだり、昼休みを一緒に過ごすことも多くなっていた。

 ある日一郎が何であの時ノートを貸してくれたのかと訊くと、名前は突然の質問にきょとんと目を瞬かせた後、悪戯げに笑いながら「話しかけるチャンス狙ってたんだよ。言ったろ? せっかく同じクラスになったんだから仲良くなりてえって」と言った。

『山田って絶対いいヤツだろうし、仲良くなれたら面白そうだって確信持ってたから、話してみたかったんだよ。こういう時の俺の勘、結構当たるんだぜ?』
『……自分で言うのもなんだが、俺、あんまいい噂ねえぞ』
『そうか? チンピラに絡まれてるところ助けてもらったとか、物なくして困ってたら一緒に探してくれたとか色々聞くぞ?』
『それは……困ってるヤツは、見過ごせねえだろ』
『ほら、いいヤツじゃん』

 そんな山田だから仲良くなりたかったんだよーーそう言って笑う名前が眩しく見えて、きっとその瞬間から一郎の中で名前という人間は特別な存在になった。





「タオルサンキューな。洗って返すわ」
「別にいいって。気にすんなよ」

 濡れたタオルを笑いながら受け取った一郎は、コンビニのビニール袋にそれを入れると、鼻歌混じりにエンジンをかけ、ハンドルを握った。その様子を見ながら、何でこんなに仲良くなったんだろうなあ、と名前はぼんやり考える。
 なんせあの山田一郎だ。
 イケブクロどころか、全国的にも超有名人。
 元伝説のチームの一員で、イケブクロ・ディビジョンを背負う代表で?
 そんな相手と友達だなんて分不相応にも程がある。
 とはいえ友達に立場は関係ないと思っているから、実際のところあまり気にしてはいないのだが。
 それでも疑問には思う。
 何故未だにこんな風に交流が続いているのだろう、と。
 学生時代の人間関係がその後も続くのはなんら可笑しくはない。しかし、それでも同じ空間に同じ目的で通っていた時と比べれば、生活リズムや環境の違いから自然と会う回数も連絡を取り合う頻度も少なくなっていくだろうに。
 特に一郎ほどの有名人で多忙な人間の中では、ほんの一、二年同じクラスで比較的仲良くしていただけの元クラスメイトのことなんて、忘れるとまではいかなくても、卒業したら優先順位はかなり下の方に落ちるのが普通ではないのか。
(少なくとも、わざわざこうして雨の中迎えに来たりとかはしねえよなあ……)名前は車の免許を持っていないが、仮に持っていたとしても、高校時代の友人が傘を忘れたからと言ってわざわざ迎えに行ったりはしない。あまりに天気が荒れていて、どうしてもと頼まれたら条件付きで行くかもしれないが、一郎のように自分から進んで行動することはないだろう。(それとも、もしかして俺が冷たいだけなのか……?)いやいやそんなはずは、と思いながら、自分の行動を脳内に思い浮かべる。

「名前?」
「んあ?」
「どうした、ぼーっとして」

 眠いなら寝ていいぞ、と運転しながら横目で様子を伺ってくる一郎に、ただでさえイケメンなのにこういう気遣いができるからモテるんだろうな、と思いながら、「いや、ちょっと考え事してて」と答える。

「考え事?」
「おう。大したことじゃねえけど」
「俺で良ければ相談に乗るぞ?」
「人に相談するようなことじゃ……いや、人に聞いた方が早えかな……?」
「……深刻な感じか?」

 言い淀む名前の様子に深刻な話だろうかと考えた一郎は、いいタイミングで赤信号に捕まった車を一時停止させてから顔ごと名前の方を向いて話を聞く体制になった。
「深刻っつーか……」どう切り出せばいいのか悩んでいるのか、一度言葉を区切る。少しの間あー、うー、と意味のない声を漏らし、それから一郎の方をちらりと見た。「なあ、俺って冷てえかな」

「は?」

 これまでの付き合いで聞いたことがないくらい冷え切った低い声だった。
 地獄の底から響くような、という形容を小説や漫画で目にすることはあるが、それはこんな感じなんだろうかと思うほどに静かな怒りが込められていた。名前には決して向けられることのない声だ。(え、今のどこに怒るポイントが?)戸惑う名前に顔を近づけ、一郎はその声の低さのまま問いかけた。

「……誰だ、そんな失礼なこと言った奴」
「いや、俺が勝手に思っただけ」
「名前は冷たくねえ。俺が知る中で誰よりも優しい男だ」
「そんなことねえと思うけど……」
「そんなことある。俺が保証する」

 ぐ、と眉間に皺を寄せて一郎は断言した。
 意志の強さを表すような鮮烈な赤色と、透き通った緑色が真っ直ぐに見つめてくる。それを真正面から受けるのが気まずくて、自然な流れで目を逸らしつつ、「ほら、信号変わったぞ」とタイミングよく変わった信号を指差した。
 名前からすればそれでこの話は終わったつもりだったが、一郎の中ではまだ続いていたらしく、運転をしながら「なんで急にそんなこと思ったんだ?」と訊いてきたため、まあ隠すほどのことでもないかと判断し、先程まで考えていたことを口にした。

「いや、山田を見てさ」
「俺?」
「おう。今日、仕事帰りで疲れてるだろうに、こうして迎えにきてくれたろ? 俺が山田の立場ならそこまでするかなあって思って」

 我ながら笑えるくらい気持ちが込められていない声だと思った。しないだろうな、と思いながらの発言だったのだから当然なのだが。
 考えてはみたが、ただの親切でわざわざ自分の時間を割くことを名前はしない。何かよほどの事情があるか、借りがあるなら話は別だが、基本的に損得勘定で動いている。
 だが、それは誰しもがそうだろう。
 無償の親切心なんて存在しない。只より高いものはないと言うが、それはその通りで、何の見返りもなく親切を振りまく人間なんていないと名前は考えている。(……でも、山田はちげえんだろうなあ)見ず知らずの他人にも優しく、困っている人間を見捨てられない正義漢だ。学生時代にヤンチャしていた影響でそれなりに悪名も広がってはいるが、一郎と接した人間は誰しもその懐の広さと人柄に惹かれ、彼を慕うだろう。

(そんな奴が、何で俺なんかと仲良くしてるのかねえ……)

 高校を卒業してから何度か考えた疑問だ。別に自分のことをどうしようもない人間だと卑下するわけではないが、山田一郎ほどの有名人で人間性のできた男がここまで優先してくれるほどの人間というわけでもない。
 友人関係なのだから深く考えなくてもいいと思うかもしれないが、『友人だから』という理由で話を終えるには度が過ぎているように思うからこそこうして疑問に思い、その度に考える。
 とはいえ、いくら考えたところで凡人に山田一郎のような人間の考えなど分かるはずもなく、名前自身が「まあ、山田だしな」と途中で思考を止めてしまうため、未だに答えに辿り着けてはいないだが。
 今回もまた「山田だしな」と思考を打ち切り、それより今日の晩飯を何にするかと窓の外を見ながら名前が考え始めた時、ふと一郎が声量を落としてあることを呟いた。

「……俺だって、仕事の依頼ならまだしも、誰に対してもするわけじゃねえよ」
「え?」
「確かに困ってる奴は見捨てられねえけど、俺はそんなに献身的な人間ってわけじゃねえ」

 そんなことを言って、更に、名前だから特別なんだと、真剣な声色で続けるものだから、つい吹き出しそうになった。(俺だから特別って、おいおい)熱烈な口説き文句だなと笑いがこみ上げてくる。
 だから、冗談が上手いな、と笑い飛ばして、そんなことを仮に女に言ったら勘違いされるぞ、とこちらもからかいの一つでも返そうとしたが、一郎があまりに真剣な目をしていて、その耳が僅かに赤くなっているのを見てしまって、冗談もからかいも喉の奥に引っ込んだ。
 そして、二人をよく知る人間からすれば今更かと呆れるような事実に、ようやく気付く。

 ーーもしかして、思ったよりも山田に好かれているのだろうか、と。

 ……実際は好かれる、なんて温い言葉じゃ言い表せないほどに深く重い感情を向けられているのだが、その事実を思ったよりも他人からの好意に鈍感な名前が自覚するのはまだ先のことだった。