「ぐへぇ」

 雪崩れ込むようにして机に突っ伏した雨を見て、灰原は眉を八の字にして七海を見た。七海はそんな灰原の様子に気がついてはいるものの、我関せずを貫くべく本から目を離さずにいた。

 五条悟のパシリ。入学以降、高専内での彼女の立ち位置はそこに留まっている。そもそも学生数が少ないこの学校では、座学以外の授業は他学年合同で行うことが多い。そのため雨は事あるごとに五条に目をつけられ、いじり倒されていると言うわけである。

「かわいそうだけど、五条さんから助けてあげられる勇気も実力もないんだよなぁ」
「灰原は正直だよね…」
「七海ならどうにかなるかも。ね、七海。雨ちゃんこのままじゃ学生のうちに過労死しちゃうよ」
「頼むから巻き込まないでくれ」
「そんなぁ」

 かわいそうだよ、と八の字にした眉の角度がもっと急勾配になる。雨はそんな灰原を見て、思わず笑ってしまった。入学して三ヶ月ほどが経ち、同期たちと気軽に話せる間柄になれたのは雨にとってはこれ以上ない喜びだった。歳上に苦労する分、同期は実家のような存在となりつつある。それだけで救われていた。

「七海も大概、五条先輩に苦労させられてるもんね」
「…正確には五条さん“達”ですが」

 雨の一言を聞いて何かを思い出したのか、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべて七海は答えた。一学年上の問題児は五条だけではない。夏油もまた、五条とまではいかないものの、違うベクトルでぶっ飛んでいる節があると言うのが七海の見解である。何かと任務で組まされる五条とも相性が悪いと感じているが、同等レベルで夏油とも反りが合わないと感じているのだ。

「二人とも先輩達と仲良しで羨ましいよ。僕も頑張らないと」
「灰原はそのままでいいよ。堕ちてきちゃダメだよ」
「わざわざ業火の中に飛び込んで行く必要はない」
「二人は今地獄か何かにいるの?」

 いつまでも純粋無垢な灰原でいてくれと、同期二人は胸の中でそっと祈るのだった。

 朝から五条に捕まって朝食を買いに走らされていた雨と、八時間睡眠で絶好調な灰原をよそに、七海は脳内で本日の時間割を展開していた。一時限目は数学だった気がする。この調子だと居眠りしそうな雨を懸念した七海だったが、すぐにいらぬ心配であったことが明らかになる。―――がらり、教室の前扉を開けて入ってきたのが数学教師でないことによって。

「一時限目の数学だが、担当教員が病欠のため、体術に変更とする。すぐに格技場へと集合しろ」

 雨の表情が一気に暗雲立ち込めたのを、七海は見逃さなかった。まるで今にも泣き出しそうな顔である。それを見た夜蛾もまた、思わず雨に声をかけた。

「どうした白川」
「いえ、別に……大したことないので…大丈夫なので…」
「本当に大丈夫なのか。めちゃくちゃ泣いてるが」
「本人の心情的に大丈夫ではないと思いますが、問題はないかと思います」
「五条さんが嫌なんだと思います!」

 放心状態になっている雨の代わりに返答した七海と灰原に、夜蛾は三人の関係性が出来上がっていることに感心した。呪術師は時にチームワークが大事なのである。ここでいうチームワークは、単純に“先輩がぶっ飛びすぎてて関わりたくない”という理念の一致にて生まれたチームワークであるのだが。

 魂が抜けた雨と、先輩達と交流が持てることに高揚する灰原、絶対に面倒ごとに巻き込まれたくないという強い決意を胸に秘めた七海の三人を引き連れた夜蛾が、格技場の扉を開ける。その瞬間、物凄い勢いで雨の横を何かが駆け抜けた。

「ダメじゃん。お前あれどうすんの」
「活きが良すぎるんだよな。あとで回収しに行くよ」

 どうやら夏油が最近取り込んだ呪霊が逃げ出したらしい。割と大きめの呪霊が逃げていると言うのに、さして気にもしていない様子の夏油と、格技場の畳の上に座り込んでいる五条。硝子は本日、呪術師の遠征任務に医療班として同行しているため不在である。
 相変わらずふてぶてしい態度の夏油と五条の二人に、夜蛾は無表情のままこめかみに青筋だけを浮かべて言った。

「お前ら、少しくらい静かに待ってることできないのか」

 夜蛾もまた、この問題児二人に手を焼く一人なのである。そんな苦労など露知らず、夜蛾の背後に控えた一年三人を五条はめざとく見つけた。

「あれ、今日一年も一緒?」
「ああ。三人一組、二人一組作れ。…あ、いや待て、白川は夏油と」
「雨」

 遅かった。夜蛾が口を挟む前に、五条は顎をくいっと動かし、「こっちに来い」と言うサインを雨へと仕向けたのである。そんな五条に、雨は夜蛾に向かって視線で助けを求めた。

「…悟」
「何?」
「あのな、お前……だから……白川にもうちょっと優しくしろ」

 一つ、致命的なことがあった。夜蛾は緩衝材となるような行動が苦手だったのである。まして、思春期男女を取り持つなんてことは今まで経験したこともない。夜蛾の言葉に、五条はぷっ、と吹き出した。

「ぎゃははは!何それ、先生雨に相談されたの?」
「……お前の行動は目に余る」
「大丈夫だって。俺たち風呂とか一緒に入ってた仲だよ」

 勢いよく肩に腕が回ったかと思えば、とんでもないことを言ってのけた五条に、雨は今にも失神してしまいそうな血圧である。夜蛾は大きくため息をつき、くるりと二人に背を向けた。

「…とにかく、女には優しくしろ」
「うわあ、前時代的ー」

 減らず口を減らす気もない五条は、雨の首をホールドしたままグイッと顔を近づけた。サングラス越しとはいえ、ギラギラした視線が自分に刺さっていることに気づいた雨は、毎度のことながら体を縮こませることしかできない。蛇に睨まれた蛙の気持ちが、今ならよくわかる。

「お前俺に困ってるんだって?」
「こ、困ってないです」
「じゃあさっきの何。俺夜蛾センにあんなこと言われたの初めてだけど」
「夜蛾先生にはそう見えてたってことじゃ…ないですか…」

 五条の視線から逃げるように目を逸らした雨。その態度すら面白くない五条は、雨の顎を掴んで無理やり自分の方へと向かせた。頬を押し潰されながらもぷるぷる震えている雨を見て、五条は思わず吹き出しそうになるのをグッと堪えた…が、あまりにも雨の顔が原型をとどめていないことが、自身のツボを押さえてくる。

「お前…っぶふっ…」
「ひょっほやへへふははい!(ちょっとやめてください)」
「いやこれブスすぎるわ…」
「はなひへふははい!(離してください)」

 散々雨の顔をいじくりまわして満足した五条は、パッとその体を解放する。雨はむちゃむちゃにされた頬を元に戻すべく自らもみほぐしながら、五条に向き直る。ここまできたら腹を括るしかない。―――忘れそうになっていたが、今日の一時限目は体術である。

「お、やる気?」
「…よろしくお願いします」
「打ってきていいよ、適当に」

 ポケットに手を突っ込んだままの五条に、雨は思い切り腕を振り下ろした。一瞬にして間合いに入った雨に、五条は一瞬手を出すか迷うほどだった。―――しかし、振りかざされたのは、およそ小学校レベルの腕力だったのである。
 いつも雨で好き放題遊んでいる五条すら、同情するレベル。それを知る同期達灰原と七海は、雨の姿を見るまいとして視線を逸らした。夏油だけが、雨の超本気ヘナチョコパンチをばっちり見届けていた。

「…お前、もしや何も成長せず?」
「はい」
「鍛えた?」
「家では毎日稽古をつけてもらっていました」
「…あ、そう」

 組み手の途中で動きを止めていた七海と夏油。雨の様子を見た夏油が、七海に向かって問い質す。

「彼女、あれは本気?」
「はい。至って本気かと」
「やる気は?」
「今日は先輩方と合同ですので、およそ通常時よりは気合が入っているかと」
「……なるほどね」

 ―――センスがない。その一言に尽きると、夏油は思った。自分の体のどこをどう動かしたらどういう動きに繋がるのか、呪力のこめ方やいなし方。それら全てにおいて、雨はセンスがなかったのである。

「……雨」
「はい」
「……とりあえず、死なない程度の体術だけは身につけとけ」
「精進します」

 いつもの揶揄いも忘れた五条は、最後に見た体術レベルと何ら変わっていない雨を見て、このままだとその辺の非術師にでも殺されそうだと懸念する。雨の目は真っ直ぐに五条へと向けられていた。雨は落ち込まない。それが今までの人生での”当たり前”だったのである。

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