少女は怯えていた。

 首まで覆い隠す真っ黒な制服が届いた日から、日を追うごとに不安と不穏は増していた。このままどこか遠くへ逃げてしまうことも考えた。だが、家の者達の目は常に光っており、隙をついて自宅の門を掻い潜る等到底無理だと断念した。溜息と共に込み上げるやるせなさに、弱冠十五歳でこの世の不条理を悟る。

 白川雨―――今年度から東京都立呪術高等専門学校に通う少女である。全国の呪術師達が拠点として活動を行う地でもあり、その敷居を跨げば晴れて雨も呪術に関わる人生を歩むことになる。今日を迎えるまで、雨は毎日枕を濡らしながらこれからの地獄を思っていた。

「というわけで、これも何かの縁だ。共によく学び、成長しろ」

 そう言ったのは、本来は一学年上の担任である夜蛾だった。緊張と激しい動悸で莚山に入山して以降の記憶が飛び掛かっている雨にとって、重苦しい夜蛾の言葉は腹の奥に沈んでいった。右隣で表情ひとつ変えない同級生と、左隣で目をキラキラと輝かせている同級生に挟まれながら、少しでも気を抜いたらそのまま倒れてしまいそうなくらい怯えている雨を見て、不安を覚えるのは夜蛾だった。―――すでに現在問題児が多いというのに、また違った意味で手がかかりそうな雰囲気を既に感じ取っていたのである。

「今日は入学手続きのみだ。この後は各自寮に戻って、明日からの授業に備え体を休めるように」

 その一言を聞いた三人は、少々体の力が抜けるのを感じていた。東京都内とはいえ、郊外の奥地に位置するこの学校へは、辿り着くまでに相当な労力を要する。移動だけだったとはいえ、少々疲れを感じていた彼らにとっては朗報だった。

「僕は灰原雄!これからよろしくね。君名前は?こっちは七海健人くんだって。さっき君がくる前に知り合って―――」
「少しくらい息をつかせてあげたらどうですか」
「あっ、ごめん!」

 目を丸くするばかりの雨に、灰原雄と七海健人―――二人の同級生は、その表情を伺うように一瞥した。雨は静かに息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。

「白川雨といいます。よろしくお願いします」
「雨ちゃんね!よろしく!男だけだと思ってたから、女の子がいてちょっと嬉しいよ」
「……君は思ったことを口に出しすぎじゃないか」
「えぇ、そうかなあ。男だけより華があっていいよ」

 陽気なタイプと、寡黙なタイプ。初対面の同級生を既に脳内で勝手なカテゴライズをした雨は、とりあえず同期とはうまくやれるやもと、内心安堵していた。まだ出会って一時間程度とはいえ、第一印象は大事である。

 併設されている寮へと向かう道すがら、自身も緊張しているのか、かたや未だ緊張が解き切れていない雨を案じてか、灰原は自ら積極的に話題を振っていた。

「普通科高校に行っても良かったんだけどさ。ちょっと憧れるじゃん、非日常的な暮らしも。俺って物好きなのかな?」
「まぁ、人によるんじゃないか」
「七海はなんでここに来ようと思ったの?」
「成り行きで」
「成り行きかぁ。でもまぁ俺も入学決まるかもってなったとこからは成り行きだったかも。雨ちゃんは?」
「あ、私…私も、成り行きで」
「あはは、成り行き多いね!」

 灰原は人に話を振るのも合わせるのもうまかった。雨は二人の会話を聞きながら、それでもなお“呪術高専の校舎内を歩いている”という事実に変わりはないため、時折周囲を確認しながら歩いていた。それに気づいた七海が、ちらりと雨を見遣る。

「さっきから何を怯えてるんですか?」
「えっ」

 気づかれていないとたかを括っていた雨にとって、鋭い七海の一言は、その肩をびくつかせるには十分だった。思わず無表情の七海を見つめてしまった雨は、声も出せないまま脳内であらゆる言い訳を絞り出す。

「え、何か怖いものでもあるの?幽霊?」
「…幽霊が怖かったら今ここにいないだろう」

 ―――あれに比べれば幽霊や呪霊の方がまだマシだと、雨は一人思った。身を乗り出して顔を覗き込む灰原を、七海が押し返すようにいなした。

「別に、そういうわけじゃ―――」
「待て五条!!」

 突如響き渡った夜蛾の怒鳴り声。三人が驚いたのは言うまでもないが、一瞬にして額に汗を滲ませたのは雨だった。その様子は、見るからに何かに怯えている。七海は怪訝そうな表情を浮かべ、理由を追求してしまいそうになる―――が、やめた。初対面の相手に、ずけずけと質問攻めにはされたくないだろう。

 バタバタと、廊下の奥で人同士が揉めている音がする。心なしか早歩きになった雨は、無意識的にその場を早く去ろうとしていた。本能がそうさせたのである。

「今のって、五条先輩のことかな」
「ああ、おそらく」
「すごいらしいよね、あの人。呪術界最強って、どんな人なんだろうね!」
「そのうち嫌でも会うことになるんじゃないか」
「任務とか一緒になったりするのかなぁ!そんな人が先輩なんて、なかなかないよ。ねえ、雨ちゃんも五条先輩って知ってた?」

 ―――これ以上、ここに居続けることは心身ともに持たない。

 雨は自分の手荷物を今一度抱え込むと、二人に向かって勢いよく頭を下げた。

「ちょっ…と、部屋の荷物が気になるので、私はこれで」
「え?部屋なら今一緒に向かってるところじゃ、」
「いやあの、ちょっと急いでて!ごめんなさい、お二人はゆっくり来てください!また明日!!」

 そう言うなり脱兎の如く逃げ出した雨の背中はどんどん小さくなっていく。あっという間に消えていった少女にただただ圧倒されてしまった灰原は、ポカンとした表情のまま七海を見た。

「…何か僕気に障ること言ったかな?」
「さあ、どうだろうな」

 それでも眉ひとつ動かさない七海は、何事もなかったかのように再び歩き出すのだった。


 ―――所変わって、とある空き教室。

 呪術高専二年、夏油傑と家入硝子は、二人だらだらと放課後を過ごしていた。今日は珍しく任務が早い時間に終わり、報告書の作成ついでに集まっていた。こうして同期で集まることは珍しい光景ではないが、今日はもう一人の同級、五条悟の姿が見えない。

「明日から一年も合流するらしいね」

 夏油の一言に、硝子は差して興味もなさそうに紙パックのレモンティーに刺さったストローをくわえた。ずず、と対して飲む気もないのに吸い込めば、温くなったレモンティーが喉を通り過ぎていく。

「あー、そんなこと言ってたっけ」
「男子が二人、女子が一人だったかな。今日が初登校だったようだけど、姿見ないね」
「今日は手続きだけだろ。私らもそうだったし」
「そうだったっけ?全然覚えてないな」

 机に頬杖をついたまま、夏油はそう呟いた。最近は任務ばかりで授業にも参加できていないせいか、高校生らしい学校生活とはかけ離れた生活をしている。おそらく、今ちょうど廊下の向こうで夜蛾に怒鳴られている五条悟も、夏油と同じような生活を送っているだろうが。

「あ゛ーーー疲れた」

 勢いよく教室の扉を開けて入ってきたのは、少々疲れ気味の五条だった。高い身長のせいで教室の扉をくぐるようにして入ってきた彼は、先ほど夜蛾に今日の任務の報告書を提出し、その内容の薄さと適当さに怒鳴られたばかりである。

「こんなに頑張って毎日毎日働いてんのにさー、なんで怒られなきゃなんねーのって話よ」
「悟は報告書さえまともに書けばなぁ」
「無理。俺そういうの向いてない。戦闘経過とか覚えてねーし」

 適当にバーッとやって終わりじゃん、大体。

 その辺の呪術師が聞いてしまったら多くの反感を買いそうな一言だったが、残念ながらこの一年で夏油も硝子も聞き慣れてしまっていた。もはや聞いているのかすら怪しい硝子は、カチカチと携帯をいじったままだ。二人の近くの椅子にどかりと深く座り込むんだ五条に、夏油は軽く問いかける。

「一年生とは会った?」
「一年?会ってねーけど。…あ、今日から?」
「みたいだよ。私も硝子も見てないけど」
「ふーん」

 興味なさげに自らの爪を眺める五条は、ふと一人の少女を思い起こした。そしてその思考はあっさりと表情に出る。もはや隠す気もない。

「楽しそうだね」
「別にぃ?」
「キモ、何ニヤニヤしてんの」
「俺先戻るわ」

 硝子にそこまで言わせた五条だったが、そんな言葉を気にも留めず、さっさと教室を出ていった。冷える廊下の先に視線を移す。不意に、自らの眼をもって気配を辿って見てみれば、

「―――本当にいるわ」

 込み上げてくる笑いの誘因は何か。自分でも得体の知れない感情だったが、五条はそれさえ楽しんでいた。ここにきて、モノクロとまでは行かずとも、セピアカラーの高校生活に色が出そうだと予感する。外は春の晴天、雨の気配など一つもないとある日のこと。

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