「では、授業を始める。今日は呪力継続とその仕組みについて―――」
「先生、ちょっと待ってください!」

 相変わらず、淡々と己のペースで進めていく夜蛾を、灰原は慌てて遮った。夜蛾はすでに板書を始めていたが、その手を止めて一度後ろを振り返る。

「白川さんがいません…」
「あぁ、それだがな」

 ―――白川はしばらく戻らない。

 淡々と、具体的に。夜蛾はそれだけ伝えると、何事もなかったかのように再び黒板へと向き直った。七海は溜息をつきながら、隣の灰原を一瞥する。眉間に皺寄せた灰原が、ぶんぶんと頭を振った。

「ちょっ、ちょっと待ってください。戻らないって…長期任務ですか?」
「いや。家庭の事情だ」
「家庭の事情…」

 それ以上言葉を返せなくなった灰原に、夜蛾は何も言わなかった。今朝から曇り空が続く東京の上空。光の入ってこない教室はいつも以上に暗く、狭く感じる。人一倍仲間意識の強い灰原が、雨のことを気にしているのは一目見ればわかることだった。呪力を持つ持たない以上に、同期である自分達に何も話してくれないこともまた、灰原は気にしている。七海はそんな灰原に、ある種の危機感さえ覚えている。―――心配、という感情に押し潰されてしまわないかどうか、だ。

 授業が終わって昼休みになっても、灰原の表情は曇ったままだった。気にしないふり、というよりは気付いていないふりを決め込む七海と二人、食堂へと向かう道すがら。

「わぶっ…す、すいません!」

 灰原がぶつかったのは、黒い壁。慌てて顔を上げると、そこには改造制服の柄の悪い男が立っていた。夏油である。突然背中にぶつかられてもびくともしない体幹の持ち主は、ゆっくりと背後の衝撃を確認した。

「夏油さん…すいません、ぼーっとしてて」
「七海がいながらぶつかった?ってことは二人ともぼーっとしてたのかな」
「私は止める気がなかっただけです」
「それもどうかと思うよ」

 夏油はすでに昼食を済ませたようで、缶コーヒーを手に教室へと戻る途中だったらしい。と同時に、いつも夏油の隣で騒いでいる五条の姿が見当たらない。任務だろうか―――そう思い、灰原の視線が五条の姿を探すように彷徨ったのを、夏油は見逃さなかった。

「悟ならいないよ」
「任務ですか?」
「いや?家庭の事情だね」
「また家庭の事情…」

 今日でその単語を聞くのは二度目です、と灰原は溜息を漏らした。夏油は少し目を開くと、視線だけで隣の七海に説明を求める。

「…白川さんも家庭の事情でしばらく欠席と聞いています」
「ああ、それなら多分、同じ事情じゃないかな」
「同じ事情…?」

 夏油の言葉に、灰原は眉間に皺を寄せた。どうやら夏油は何もかもを知っているらしいことを察し、次の言葉を待つようにして押し黙る。

「五条と白川の定例会合みたいだから。年イチで一族総出で顔合わせするとか何とか言ってたな」
「白川…さんって、そんなデカイ家なんですか?」

 灰原は食らいつくように前に出た。夏油が少々驚いた表情を見せると、牽制するように灰原の腕を七海が掴む。まるで飼い犬と飼い主のようだと、夏油は内心そう思った。

「でかい家…まぁ、そうなんじゃない?呪術界では有名な神社らしいからね」
「白川神社なのであれば、祭祀関連で有名と聞きます。御三家の中では五条と禅院に所縁があるかと」
「七海、知ってるの?」
「詳しくはないが」

 灰原の心配をよそに、夏油はにっこりと微笑んだ。すでに出来上がった関係性―――今年の一年もまた良い繋がりを持てていることを確信する。

「雨ちゃんがそんなすごいところの家の子だったとは…僕たち本当に、何も知らないね」
「知らないことなんてたくさんあるさ。知らない方が良いこともあるしね」

 そう言うと、夏油は灰原の肩を叩いて教室へと戻って行く。その背中を見つめたあとで、灰原は七海を見上げた。

「白川さんが帰ってきたら、僕はちゃんと聞きたい」
「……灰原」
「仲間じゃん、僕たち」

 たった三人の同期。呪術高専という異質な場所で巡り合ったのは、運命共同体とも言える関係性だと灰原は信じている。だからこそ、何も知らないのは嫌だった。七海の返答を待たずに再び歩き出した灰原の意志は固かった。七海から漏れ出た溜息は、誰も知らない。

▲▽▲

「雨様」

 今となっては呼ばれ慣れなくなった敬称に、雨の反応はワンテンポ遅れた。襖の向こうから聞こえた白川家の女中の声。相変わらず辛気臭い実家の匂いにも辟易していたが、この取ってつけたような客人扱いにも、雨はうんざりしていた。
 ゆっくりと襖を開けると、三つ指をついて頭を下げる女中の姿があった。

「五条家の御子息がお呼びです」
「…いやでももう、会合始まるんじゃ」
「お急ぎとのことです」

 失礼します、とだけ告げてさっさと戻っていった女中からは、親しみは一切感じない。この家の人間と従者だと考えたとしても、兄や姉との扱いの違いは明らかだった。帰ってきて早々、西の離れに案内された時から感じてはいたことだったが。
 朝から着慣れない振袖を着付けられ、これからが本番だというのに雨は疲れ切っていた。辺り一帯の霊力の強さにもあてられているため、余計に疲れるというもの。

 五条家との会合は、年に一度とはいえ緊張する。白川一番のお得意様、五条に見放されたら呪術界での居場所は無くなるんじゃないかと思うくらい、繋がりは強固だった。だが、そんな繋がりは上辺だけのもの。お互いにおかしな動きをしていないか、腹の探り合いが始まるのだ。

 そんな五条家の次期当主が、五条悟である。五条家相伝の術式と、六眼と呼ばれる最強の目を持って生まれた五条家の宝。呪術界最強。その他諸々。そんな五条とは生まれてからの仲とも言えるが、家格も家の中での扱いも異なる自分とでは、月とスッポンだと雨は自己評価している。

「ハァ…」

 五条が案内されているのは、屋敷内の客間の中でも一番大きな座敷だった。主殿へ上がるだけでもヒソヒソと陰口を叩かれるというのに…そんなことを考えていれば、あっという間に五条が控えている座敷の前へとたどり着く。音を立てずに正座の姿勢になると、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「…悟様。雨です」
「入っていいよ」

 右手にかけた襖を、ゆっくりと右へ流す。絢爛な屏風が立てられた部屋の中で、五条は堂々と横になっていた。いつもと違うのは、晴れの日ともあって紋付袴を身に纏っているということだけだ。

「悟様はキモすぎない?」
「誰が聞いてるかわかりませんから」
「それもどうにかしてくんねぇ?あちこち式神だらけで鬱陶しいんだけど。気づかないふりすんのも面倒臭ぇわ」
「それは申し訳ございませんでした」

 白川家側の人間として、一応不自然ながらも謝罪しておく。五条も雨も、この屋敷に入った瞬間、ぬるい視線が身を貫いた。気づかれてもいい程度の式神しか張っていないのは、『下手なことをするな』という牽制だ。この屋敷内に目と耳のない空間などないことを、五条も雨も認識している。

「面倒臭ぇ」
「え、」

 五条はさらりと、そしてあっさりと、四隅に貼られた結界―――盗聴用の式神を解いた。呪力ではなく、霊力を使った式神だったはずだ。何なら白川家の霊力を持ち得る者しか解くことは難しいだろう。それが意図も簡単に解かれてしまったことに、雨は驚きを隠せなかった。

「…どうやってやったんですか?」
「何となく」
「何となく、って」
「それよりどうよ、久しぶりの実家は。足伸ばしてる?」
「…駅のトイレの方がまだマシです」

 式神が解かれたことで、雨の緊張も少しほぐれていた。冗談の混じった本音だったが、五条は楽しそうに笑う。

「さっきお前の父ちゃんと話したわ。お前の様子、一個も聞いてこなかったけど」
「いつものことです」
「昔はもうちょっと柔らかくなかった?あの人」
「昔からあんなです。私に笑顔を見せてくれたことなんて一度もないですし」

 雨の声色は、悲しみも憎しみもなかった。それが当然で、生まれてきてから今日に至るまでの常。五条はゆっくりと起き上がると、雨の目の前にしゃがみ込んだ。
 そして両腕を雨の肩に預けると、驚いて身をひいた雨の顔に自らの顔を寄せる。こんなに近くで五条の顔を見るのは、およそ十年ぶりである。雨はその碧い瞳に吸い寄せられる。この眼が、何もかもを見透かしている。

「お前の家も、俺の家も、正直どうでもいいんだよね」

 五条は、涙もすっかり枯れてしまったであろう雨の目元を擦る。泣き方すら忘れてしまった雨の涙を、拭うように。

「お前が要らないって言うんなら、全部ぶっ壊してやってもいいよ」

 冗談には聞こえなかった。五条の目は本当のことを言っている。雨はその瞳から視線を逸らすことができなかった。眩暈すら覚えるほど、その声色にも、目にも、嘘はない。
 雨は小さく笑った。けらけらと、子供が玩具を転がして笑うように。

「悟くん…」
「何?」
「冗談下手だね」

 いつしか、敬語もいつもの呼び方も、元に戻っている。五条はそれに気がついていたが、あえて何も言わなかった。その呼び方で名前を紡がれることに、懐かしさと心地よさを感じていた。

「壊さなくても、もう壊れてるでしょ」

 雨の強さはこういうところだと、五条は確信する。呪力も霊力も僅かで、術式すら持たない少女。何も持ち得ないからこそ、失うことへの怖さも未練もないのだ。

「…いいじゃん。それ、後で爺さんたちの前で言えよ」
「言わないです。言えないです」
「あーつまんねぇ。晴れて自由の身かと思ったのに」
「五条先輩を必要としてる人はいっぱいいますよ」
「…お前は?」
「え?」
「お前は俺のこと必要としてんのかって聞いてんだよ」

 五条は貫くような視線を雨に浴びせた。雨は突拍子もない問いかけに、思わず閉口する。その態度が面白くない五条は、眉間に皺を寄せて凄んだ。

「なんだコラ、黙ってやり過ごそうとしてんじゃねーぞ」
「い、いや、突然だったので」
「どうなんだよ」
「必要ですよ、もちろん」

 ―――もうずっと。多分生まれた時から。

 その言葉の衝撃に、五条は思わず身を引いた。あまりにも簡単に愛の告白のような言葉を紡いだ雨に、心底驚いてしまったのである。一方雨は、自分の言葉の重さなど自覚もせず、ゆっくりと立ち上がった。

「さ、行きますよ五条せんぱ…悟様」
「うぜぇー」
「それは失礼いたしました」

 本当に、壊してしまってもいいと思う。それでこの少女が、呪いだの神だの確信性のないものから解放されるならそれでもいいと、五条は思うのだ。

「悟くん」
「…なんですか」
「ありがとう」

 ―――それでも、雨はそれを選択しない。
 自分が最初から持ってなかったことを、否定したくはない。何も持ち得ないことが意味のないことだと認めるつもりは、少女にはないのだ。今までも、これからも―――それが出来損ないの矜持だと、雨は確信している。

 五条は雨の肩に腕を回した。姿勢を崩した雨を受け止めながら、五条は笑う。このままふざけた姿勢で応接間に突入し、大御所達が驚愕するまで、あと数分。

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