呪術界は、人手不足が常である。
 人の負の感情は尽きることはない。よって、呪詛師や呪霊がなくなることはない。学生の身分であっても任務へと駆り出されるため、自ずと授業は不定期となる。七海や灰原もまた、呪術師や他学年の学生同様、日々自分の実力同等レベルの呪霊を祓い、経験を積んでいた。

「ここ最近人使い荒いよねぇ。流石に疲れたな」
「今に始まったことじゃない」
「そうだけどさぁ」

 結局、その日の任務は深夜まで及んだ。窓からの通報から六時間以上が経過しており、時刻は午前一時を回っていた。報告通り二級相当の呪霊ではあったが、手数が多く手間取ったのも拘束時間が長引いた要因だった。寮の談話室に戻るなり、灰原は愚痴をこぼしながら使い古したソファに沈みこむ。ペットボトルの水を飲み干した七海は、そんな灰原の愚痴に付き合う様子は見せないものの、流石に連日の任務で体は疲れていた。

「雨ちゃん、大丈夫かな」

 灰原の一言は、深夜の談話室の空気を少しだけ変えた。七海は首に手を当てると、凝りを解すように手を動かす。灰原が何を心配しているのかはすぐに察したが、あえて的外れな言葉を返した。

「基本的に学生の“巡回”は危険度の低い施設を回るだろう。そこまで心配する必要はない」
「いや、そういう意味じゃなくて―――」

 雨に、危険度の高い任務が与えられることはない。基本的には学校や病院、その他呪いが停留しやすい場所を回り、様子を確認するだけの”巡回”。窓や補助監督でもできる仕事であり、そもそも人手不足の呪術師が当てられることは、相当な危険度がない限り無いのだ。
 だからこそ、日々巡回だけを続ける雨を気にかけるのは当然だった。呪術師になるために高専へやってきたはずなのに、雑用ばかりを当てられる。もはや屈辱的でさえあると、灰原が僅かに唇を噛んだ時だった。

「私達は、白川さんの実力をこの目で見たわけじゃないでしょう」

 七海の言葉は、嘘偽りない事実だった。雨が呪力を纏い力を振るう姿は、訓練でも見たことはない。

「……それは、そうだね」
「何か理由があるんでしょうが、私にはどうでもいいです」
「またそうやって七海はぁ。本当は心配してるくせにぃ」
「してません」
「してるよ、顔に出てるよ」
「出てない」

 無表情のまま掛け合いを続ける七海に向かって、灰原は楽しそうに笑った。自室に戻るべく、テーブルに置いたままだった荷物を手にした七海に続くように、灰原もまた欠伸を漏らしながらソファから立ち上がる。

「明日も早いしね。早く寝よう」
「ああ」

 明日もまた、朝から任務が入っている。灰原はここしばらく座学で授業受けてないな、なんて考えつつも、自分の運命が”呪術師”のレールに乗ったことを噛み締めていた。七海に続いて、談話室の前扉を抜ける。すっかり暗くなった廊下を歩き始める。

 談話室の後ろ扉のドアノブに手をかけたまま、動けなくなっていた雨は、息を顰めて二人の背を見送る。こういう日に限ってなかなか寝付けず、遅い時間に戻ってきた彼らの物音に気づいた。労いがてら、少し話でもしようかと思い談話室に入室しようとした矢先、灰原と七海は自分の話を始めた。入るに入れず、図らずも立ち聞きしてしまったのである。
 誰もいなくなった談話室へと足を踏み入れると、さっきまで灰原が座っていたソファに沈んだ。

「……無理があるな」

 ―――座学や呪力を使わない体術訓練だけを受け続け、巡回任務にばかり出続けるのは。
 雨の独り言は、談話室の古びた天井に吸い込まれていく。

「センチメンタル?」
「―――っ、わ、!」

 突然目の前のソファに、現れた。
 入ってきた音はしなかったはずだと、ソファに体重を預け切っていた雨は跳ね返るようにして体勢を整える。五条は長い足を組み座りながら、サングラス越しでもわかるほどにやついた表情を浮かべていた。

「いつ入ってきました…?」
「フツーに入ってきたよ。お前がセンチメンタル中で気付いてなかっただけ」

 ―――絶対嘘だ。そう思いつつ雨は一気に上がった心拍数を元に戻すべく、ゆっくりと深呼吸をした。一方で五条は一切悪びれることなく、「疲れたあ」などこぼしながらソファに体を預けだらけ切っている。これまたすごいタイミングで現れてくれたと、雨は五条には聞こえないよう小さく息をついた。

「つーかすごい時間まで起きてんな。お子ちゃまは寝る時間だろ」
「寝付けなかったんです、今日は」
「寝付けなかったから談話室で同級生とお話しでもしようかと思ったら、自分に呪力も術式も何もないの不審に思われてるっぽくてそろそろやばいなと思ってたってわけか」
「……いつからいたんですか、本当に」
「ほぼ神だから、俺」

 全知全能なの、なんて言ってのける五条を、雨は心底羨ましく思う。冗談であっても、この男の場合冗談では留まらない。冗談を本当にして見せるのが五条悟だ。

「言っちゃえばいいじゃん。呪力ないんですって」
「何で呪力がないのに此処にいるんだって話になるじゃないですか…」
「神学なんてクソつまんねーもん学びたくなかったから、でいいだろ」
「……それじゃ嘘になっちゃいますよ」

 そう言うと、雨は少しだけ笑った。五条は流した視線でそれを見遣ると、大きくため息を吐き出した。―――相変わらずの下っ端根性だな、なんて思いつつ。いつまでも変わらないのは、変わる気が本人にないからだと言うことも、五条はわかっているのだが。

「嘘もつき続ければ本当になるんだよ。お前の同期、七海と灰原だろ?そんな嘘か本当かわかんねーこと、わざわざ言及してくるような奴らでもないし。それとも何?マジでそっちの道行きたかったの?」

 雨の実家である白川家の人間は、代々決まった学校に入る。神道を学び、神学の道を極める学校だ。しかし、雨は呪術高専に身を置いている。

「…学びたくなかった訳でも、学びたかった訳でもないですけど」
「じゃあ何」
「そ、そんな詰めないでよ」
「あ、敬語」
「…詰めないでくださいよ」
「嘘嘘、冗談。お前の敬語キモいなって思ってたよ。あとその取ってつけたような五条先輩呼びも」

 ゲラゲラと節操なく笑う五条を前にして、雨も思わず笑ってしまう。此処へきて数ヶ月、久しぶりに笑ったような気がした。そして五条もまた、雨の屈託ない笑顔を見たのは久しぶりだった。

「ふ、はは…っ」
「何笑ってんだよ」
「正直、私も気持ち悪いと思ってたので」
「自覚あんならよかったわ」

 何もかも、受け入れられた訳じゃない。五条に対する敬語も、慣れない先輩呼びも。環境の変化も、学校を家が決めた時も。―――神学を学ばなかった訳じゃない。学ぶ資格を与えられなかっただけだ。

 血縁で相伝するはずの霊力は、生まれた時から持っていなかった。あったのは微細な呪力だけ。呪いを認識できるだけの、微々たるものだった。優秀な兄と姉は進学の道へ進み、幼い頃から家の繁栄のために尽力していた。出来損ないも度が過ぎると、比較すらされないことを雨は知っている。
 五条はさして興味もなさそうに、ただ真っ直ぐな声でつぶやいた。

「呪力も霊力もなくていいよ、お前は」

 それは、出会った頃。まだ六、七歳ほどだっただろうか。小さな五条悟が自分にかけた言葉だ。何も持ってないんだと幼い自分が言うと、何もかも持っている小さな少年はそう返した。

 自分の分も、それ以上も、何もかも五条が持っているから、それでいい。

「…あげちゃったんですよ、多分。全部」
「ハッ、お前から貰うまでもねーよ」
「あはは、それはそう」

 笑い声が漏れる談話室に、淡い光が差し込み始める。朝の気配が迫っていた。―――あの頃と変わらないのは五条に変わる気がないからだと、雨もまた、わかっているのだ。

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