「やあ」

 少女がぎょっとした表情を浮かべたのを、夏油は見逃さなかった。

 基本的に、雨は自らの危機察知能力は高い方だと自負している。それはおそらく、今まで五条という存在に安寧を脅かされてきたことによる偶然の産物だ。人はそれを怪我の功名とも言うだろう。

 だがしかし、怪我すらしたくないのが雨の本音であるところ。

「やめてやれ、お前の笑顔は怖いんだよ」

 雨の目の前にひょっこりと現れて距離を詰める夏油に、硝子は呆れながらそう言った。放課後、入っていた任務が延期になり、時間が空いたのはたまたまだった。そして、保健室に意気揚々と入っていく雨を夏油が見つけたのも、たまたまだ。
 硝子は保健室兼処置室兼解剖室と言う多種多様な行為をおこなっているこの部屋の、いわば主のようなものだった。反転術式を他者に使える硝子は、今や高専専属の医師のような存在だ。そんな硝子は、ひょんなことから雨と親しくなり、こうして時々保健室に呼びつけてはおやつの時間を共にする間柄である。

「硝子にはよく懐いてるね」
「餌付けしてるからな。ほれ」
「あり、ありが、ありがとうございます」

 もはや夏油を前にして緊張が最高潮に達してしまってい雨は、硝子にもらったあんドーナツを持ちながらも焦点があっていない。まるで子猫に警戒されているようだと夏油は思った。

「白川さん」
「は、はい…」
「自己紹介がまだだったね。私は夏油傑。悟と硝子の友人だ」
「…白川雨です」
「よく知ってるよ」

 私はよく知ってるけど、と言って夏油はにっこりと微笑んだ。怖くないから近寄ってこい、とでも言うように、夏油は雨に向かって手土産の赤福を差し出した。距離を詰めるなら餌付けが有効だと言うことは、硝子から既にリサーチ済みである。

「餡子は好き?口に合うといいけど」
「あ、す、好きです。ありがとうございます…」
「灰原と七海とよく一緒にいるよね。あと悟」
「さと…五条先輩とは一緒にいると言うより、用事を頼まれてるだけです」

 悟、と親しく呼び合う夏油につられて、一瞬昔の呼び方に戻りそうになった雨だったが、寸前のところで理性がそれを制する。今や上下関係のある間柄だ。将来的には上司にもなり得ると、雨は肝に銘じていた。

「かわいいね」

 不意に言い放った夏油の一言に、雨は表情を固くし、目の色が冷ややかになる。

「……硝子さん」
「こいつも五条も、女には見境ないからな。近寄らない方がいい」
「そういう意味で言ったんじゃないよ。何だろうな、近所で野良猫を見つけたような感覚に近い」
「……硝子さん」
「近寄らない方がいい」

 もはや五条よろしく敵認定しそうになっている雨だったが、赤福をくれたことは事実である。大好物まで知られていることも露知らず、雨は嬉しそうに赤福を頬張った。

「雨は悟の幼馴染なんだっけ」

 急に呼び捨てにされたことにも驚いたが、やはり五条の友人ともあって、距離の詰め方が異様にうまい―――そう雨は感じていた。灰原の時とはまた違った距離の詰め方にも感じるが、ここはひとまず受け流すことにした。

「幼馴染というには、あまりに家格が違うので…」
「この業界あるあるだね」
「でも、雨の家も立派な神社なんじゃないのか?」

 硝子の問いに、雨はウウンと声を上げる。白川神社―――表立って著名な神社ではないが、呪術界では護符や神礼、祭事に関しては白川で執り行う家は多い。五条家もまた、白川とは遡ること千年前からの付き合いとなる。

「呪術界で、ってだけです」

 そう言った雨に、夏油はわずかに目を見開いた。あまり自分の家の話はしたくなさそうな雨の雰囲気を察して、夏油は再び微笑んだ。

「悟のことは嫌い?」
「え゛っ…」
「あからさまに動揺するな」

 唐突な夏油の質問を受けて肩をびくつかせて驚いた雨に、硝子はくつくつと笑う。夏油もまた、図星なのだろうなと思うと、こうしている間にも任務に勤しむ親友を少し憐れんだ。しかし、雨は咀嚼していた赤福を一度飲み込むと、表情を少しだけ解いてみせた。

「悟くんは、私に対しては意地悪ですけど、悪い人ではないので…多分それは、お二人が一番知ってるかもしれませんが」

 さらりとした表情で言ってのけた雨に、夏油と硝子は今度こそ目を見開いた。悟くんと呼んでいたのか―――二人はその事実をしっかりと受け止め、満足げに頷いた。

「そうだね。悟は親友だよ。ちょっと子供っぽいところあるけど」
「クズだけど、まぁ世のため人のために頑張ってるしな」
「―――性格悪いな、どいつもこいつも」

 保健室の扉が勢いよく開き、低い声が響いた。条件反射で雨の体がはねる。

「おや、盗み聞きとは趣味悪いね」
「気ビンビンで扉の前にいましたけど。気づいてねぇとは言わせねーぞ」
「おかえり五条、今ちょうど雨がお前のことを―――」
「硝子さん!」

 肩をバキバキと鳴らしながら、疲れた様子で入ってきた五条は、そのまま置きっぱなしの椅子にどっかりと座る。もはや座るというより、全体重を預けて沈んでいるような姿である。
 硝子の言葉を止めるべく立ち上がった雨の腕を、五条は思い切り引っ張った。一気に体勢を崩した雨は、そのまま後ろに引っ張られたことによりストンと五条の太ももの上に鎮座した。

「ぎゃあああああ」
「っ…るっせぇなでかい声出すんじゃねーよ」
「何を、何、何をしてるんですかやめてください離してください死んでしまいます死にます」
「で、俺が何だって?」
「ぎゃあああああ」
「悟、とりあえず離してやれ。雨が白目剥いてる」

 もはや泡を吹きそうな勢いで暴れている雨だったが、五条は離す気などさらさらない。そのまま横抱きにするように膝の上に座らせていれば、観念したのか雨はぴくりとも動かなくなった。観念、というよりは意識を飛ばすことによって記憶を抹消させようとしている、に近い。

「雨に直接聞いてたんだ、色々。悟のこと、嫌いじゃないってさ」
「それは語弊があるな」
「…へー」

 白目を剥いたまま意識を飛ばした雨は、そのまま力尽きて五条の胸へと体を預けてしまった。一番本人が避けたかった状況に陥っていることを、意識のない彼女は知る由もなく。

「あんまり意地悪しすぎると好きなのバレるよ、バレバレだけど」
「アオハル?砂吐きそう、煙草吸ってくるわ」

 べ、とあからさまに嫌そうな表情を浮かべながら保健室を出て行く硝子を見送りながら、夏油もまた呆れたようにため息をついた。五条は自分の懐に収まったままの雨の髪を一束掬い上げると、自身の指にくるくると巻き付ける。

「そういうんじゃねーの、俺とこいつは」

 五条の一言は、夏油が思っていたよりずっと重たく、どこか諦めを含んだ声色で。それ以上何も言うまいと、夏油は口を噤む。幼い頃から変わらない、魂の抜けたような雨の寝顔を眺めながら、五条もまた天井を仰いでいた。

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