/ / / お邪魔します、と一言告げた時、居間から聞こえて来た宮家のおばあちゃんの「いらっしゃい」というやわらかな声が耳を抜けた。
「ええよ別に」
「いや、挨拶だけするわ」
階段を上ろうとしていた治が私の視線に気づいてそう言ったけど、挨拶しないわけにはいかない。誰もいないと言っていたけど、今日は近所に住むおばあちゃんが来ているらしい。私の言葉を聞いた治が、私に手を差し伸べる。鞄を貸せということらしく、慌てて肩から鞄を外した。
「お邪魔しますー」
「あらぁ、廉ちゃんだった。治が彼女でも連れて来たんかと思うたよ」
さすがはおばあちゃんだ。
治も侑も似た声をしているのに、声だけでどっちか見極めがつくらしい。御年八十を超えると言うのに、まだまだ元気なおばあちゃんだ。たれ目な目元は治に似ている。
金曜日、図書委員の仕事が長引いた私と双子の部活が終わったのはほぼ同時。明日は午後練だというから、じゃあ今日の金曜ロードショーは一緒にみようということになった。おばちゃんに買い物の荷物係として呼び出された侑とは途中で別れ、治と共にここへ来た。
「ご期待に沿えずすみません」
「ええのよぉ、いつかお嫁さんとして来るかもしれへんしなぁ。どっちか選んどきや」
「あはは、私にはどっちも勿体ないので遠慮しときます」
相変わらずお茶目なおばあちゃんは、双子の名付け親だ。侑と治、上手いことつけたなあと思う。一時期尾白先輩のアランという外国名に憧れて以来、お互いをサムとツムと呼び合うようになっているけれど。
「廉遅い」
「あ、ごめんごめん」
「ばあちゃんただいま」
「おかえり。手ぇ洗いや」
既に下をスウェットに着替えた治が顔を出した。おばあちゃんの言葉に軽く返事をすると、私に目配せをする。
そのままふたりで言われた通り洗面所に向かった。じゃばじゃばと手を洗っていれば、横から治が割り込んでくる。治が手につけた泡ハンドソープが洗い終わった私の手にまでついた。
「うわ、また泡ついたやんか………このっ」
「ちょぉ、やめろやコラ」
「つけ返してこやんでよ!」
「先につけたんお前やろ」
「仲良く喧嘩しなさいよぉー」
おばあちゃんの間延びした声がして、それを合図にお互い真面目に手洗いを終えた。治がタオルで拭く前にぴっぴっと指先から水滴を飛ばしてきたせいで、顔にぴちゃっと水がつく。
「最低ー!侑みたいなことせんで!」
「びしゃびしゃやで顔」
「お前がやったんやろが!」
階段を上る途中、前を歩く侑の黒Tシャツを引っ張って顔を拭く。「何してんねん」って小突かれたけど、もともとやってきたのはお前だ。
二階に到着すると、治は自分の部屋のドアをがちゃりとあけた。隣の部屋は侑の部屋だ。開きっぱなしになったドアの向こう、とっちらかった室内が見える。朝脱いだであろう寝間着のジャージがそのまんまだ。
私は治の部屋に脚を踏み入れると、そういえば部屋着を持ってきていないことに気が付いた。ワイシャツとスカートが皺になる前に早く着替えておきたい。またお母さんにどやされる。
「治ジャージ貸して」
「え、どっち」
「どっちも」
「上はええけどお前下いけるか?」
「失礼な。さすがにあんたより細いわ」
「逆に決まってるやろ。ぶかぶかなんちゃう」
クローゼットから取り出した、治がいつも着ているデサントの黒Tシャツ、下は紐で調節できる中学指定の青い短パンを投げ渡された。タグのところに「治」と書かれている。きっとおばちゃんが侑とごっちゃにならないように書いたのだろう。
「女子って器用に着替えるよなぁ」
ワイシャツの上からでかいTシャツをかぶり、中でワイシャツを脱いでいく。服の下から器用に脱ぎ終えたワイシャツを取り出し、今度はスカートの下にジャージを履いて、スカートの留め具を外した。………と思えば、ベッドの上に腰掛けた治が私を見ながら呟いたのだ。
「………じろじろ見んとって」
「目の前で着替えるからやん」
「そこは普通気ぃ利かして目を逸らすの。イケメンはそういう気遣いをすんねん」
「ここで目ぇ逸らす方が男の恥やと思うわ」
治は侑より落ち着いてるくせに基盤がアホな所為でこういうことをさらりと言う。
きりっとした表情をわざわざ作って言った治に、私は溜息をつくほかなかった。ぶかぶかの短パンの紐を限界までしぼり、なんとかずり落ちないようにする。それでもやっぱり裾周りはだいぶ大きい。
「金ローまで何する。ゲーム?」
「んー………寝る」
ちょいちょい、と突っ立ったままの私に、ごろんとベッドに倒れている治はそう言った。………寝るのかよ、と思いつつ、私も鞄から携帯を取り出しベッドに腰掛ける。すると治は私の腰をがしっと掴み、自分の顔がある傍まで無理やり引き寄せた。そして腰掛けている私の腰横辺りから顔を覗かせ私の手元のスマホを見る。
「動画見るんやったら俺も見たい」
「何みたい?」
「ゲームのやつ」
最近お気に入りのゲーム実況のページを開く。
動画が始まって数分、うつらうつらしていた治が身体を起こした。そして何をするのかと思えば、私の膝の上に頭を乗せた。
「眠いん?」
「うん。三十分寝るわ」
「そこやったら落ちるで。もうちょっと奥座るから一旦頭あげて」
「もうめんどくさいからいい。落ちたらほっといてええよ」
おやすみ、と言って数秒だった。寝息が聞こえてきたのと同時、リビングからがちゃりと玄関扉が開いた音がする。がさがさとスーパーの袋が擦れる音も響いていた。
「ただいまー!」
「豚どもー、侑様がお菓子買ってきたったでー」
おばちゃんの高めの声が響いた後、次いで侑の声がした。挨拶に行きたいけれど、治が寝てしまってるせいで動けない。
「音せえへんなぁ。寝てるんかな?」
「……………見てくるわ」
階段の一段目を踏みしめる、ぎぃ、という小気味良い音がして、侑が階段を上ってくる気配がした。ノックもせずにがちゃりと部屋のドアが開いて、怪訝そうな表情の侑がこちらを見ていた。
「何しとんじゃコラ」
「しー!今寝たんやから」
「寝てるわけないやん。狸や狸。クソポンコツ狸や」
侑はそう言うとベッドの前までやってきて、治の顔前にしゃがみこんだ。じいっと見つめる侑に、私は慌てた。
「寝てるって。ほら全然動けへんやろ」
「………起きてんで」
「うわぁ!」
ばちっと目を開けて身じろぎした治に驚いて、私は一瞬肩が跳ねる。治はそのまま私の太ももにうつ伏せになると、大きく伸びをした。そしてだらりとベッドの下へと左腕が垂れる。
「おいサム、どさまぎで太もも堪能してるやろ」
「いや侑それはないと思うわ………」
「………バレたか」
「ほらな」
侑は治の頭を小突くと、「さっさと起きろ」と眉間に皺を寄せてそう言った。気が付けば彼はまだリュックも背負ったままだ。
治は二度目の伸びをして起き上がると、眠そうな瞳をこちらに向けて呟いた。
「…………顔見なきゃイケるで」
そう言った治の鳩尾にパンチをお見舞いして、私はベッドから降りた。「ぐふぉっ」という声を背後に聴きながら、侑の背中のリュックを押す。
「あんなのほっといて下でお菓子食べよ」
「せやな。お前今日はあの脚フェチ痴漢野郎には近づかんときや」
「そうするわ」
治のうめき声に終止符を打つようにして扉を閉める。「お茶いれたよー」というおばちゃんの声に返事をした。今日も平和だ。治以外は。