【幹部執務室】―――部屋の前に下がった札を見て、桜子は今一度深呼吸をした。局長室や副長室は何度か入ったことがあるが、ここまで緊張した記憶はない。

 街でチンピラに絡まれていたところを沖田に助けてもらってからと言うもの、桜子は改めて礼を言う機会を逃していた。手には沖田がよく通っているという和菓子屋のわらび餅が入った紙袋。これが沖田の好物だということは、食堂の常連、山崎からすでに教えてもらっている。

『沖田隊長は普段、自室か、隊長格の幹部が揃って仕事してる“幹部執務室”ってところで執務にあたっている―――っていうのが建前かな。正直、まともに働いてるとは思えないから、会えたらラッキーかもね』

 隊長なのに、働いていない……それは、このひと月真選組屯所内で働いた桜子にとってはあまり驚くべき事実というわけではない。沖田の代理として土方にことあるごとに呼びつけられ、目を血走らせながら働いている梅の姿を見ればよくわかる。…かと言って、自室に突撃するほどの勇気はなかった。もしここにいなければ、食堂に現れるのを待つだけだ。ただ、二人で話がしたいという、下心もないわけではない。

「失礼、します!」

 意を決した桜子が、襖のむこうに向かって叫んだ。普段あまり声が大きい方ではない桜子にとっては、渾身の大声だ。
 しかし、応答はない。どうやら皆出払っているようだった。拍子抜けしてしまった桜子は、手に持った紙袋をぎゅっと握りなおす。出直しか―――そう思い、踵を返そうとした時だった。

「なんか用ですかィ」

 気配もなく、音もなく開いた襖。桜子はびくりと肩を踊らせた。振り返った先にいたのは、まさに目当ての人物―――沖田が、怪訝そうにこちらを見ていた。

「沖田隊長…い、いらっしゃったんですね」
「まァ、勤務中なんで…誰かに用でも?」
「あ、あのこれ……」

 震える手で差し出された紙袋。沖田は目を丸くして視線を下げると、桜子の耳が真っ赤に染まっているのがわかった。この組織の男達はトップをはじめとして察しの悪い男が多いが、沖田は自分の勘はいい方だと自負している。その赤くなった耳が気恥ずかしさなのか、はたまた別の感情から来るものなのか―――沖田はなんとなく察しそうになったが、止めた。勘違いは誰にでもある。

「助けてもらって、お礼がまだ言えてなかったので…ありがとうございました」
「律儀にどーも」
「………」

 はて、どうしたものか。
 沖田は紙袋を受け取ると、その一言だけで終わらせるつもりだった。目の前の女中も、さっさとその場を去るだろうと踏んでいた。だが、桜子に去る気配はない。それどころか、震える手がいつの間にやら握り拳をつくっていて、何かを決意したようにも見える。

「お、お茶を淹れるので…よかったらそれ、召し上がりませんか」
「は?」
「嫌だったらいいんですけど!」
「………」

 その勢いに、珍しく沖田は圧された。顔を真っ赤にさせて、プルプルとこちらを見上げる、食い殺される寸前のような小動物の仕草を見せる桜子に、沖田は言葉を詰まらせた。

「じゃあまァ、お言葉に甘えて」
「えっ!?」
「…今度は何でィ」
「い、いいんですか!?」
「とりあえず、入んなせェ」

 引き入れるように姿勢を変えた沖田に言われて初めて、自分が廊下で大声を上げていたことに気づいた桜子は、今度は血の気がひいていく。誰かに見られていたら、どうしよう―――いや、別になんてことない。ただ、お礼を言っていただけだ。

 執務室内はそれなりに綺麗に整頓されていた。そもそも掃除の担当エリアからは外れているので、初めて見る幹部執務室に緊張して、桜子は動悸が早くなる。食器棚とポットが並ぶ簡易的な給湯場に案内されて、桜子はガチガチになりながらもやっとの思いでお茶を淹れた。客用なのか、畳の上に敷かれた絨毯の上には黒張りのソファが置かれていた。沖田はそこに腰掛けると、先ほどもらったわらび餅を早速開封している。

「お、センスいいなアンタ」
「あ、いや…山崎さんに尋ねたら、ここのわらび餅をお薦めされて」
「ここのは別格に美味いんで、覚えといて損はねェ。ほれ、アンタも一つ呼ばれなせェ」
「ありがとうございます…じゃあ、一つだけ」

 小皿に取り分けてもらったわらび餅。自分が渡したものだが、断る理由もない。そもそも、薄透明に輝くわらび餅はなんとも美味しそうに目に映る。口の中に放り込めば、上品な甘さが広がった。きな粉の味も繊細で、一瞬で別格という意味がわかった。

「おいしい…!」
「だろ。たまたま見つけた名店なんでィ」
「確かに、こんなお店があったこと、知らなかったです。路地裏だったから、少し迷っちゃいました。…いつから通われてるんですか?」

 思わぬ話題が転がってきたものだ。二人で話したいと思ったはいいが、お互いに共通の話題など見つけられそうにもなかったので、桜子にとっては棚からわらび餅だった。

「四年前くれェか、ちょうど」
「そんな前から……本当にご贔屓にされてるんですね」
「まァ、ぼちぼち。昔はまだあの辺も開発されてなかったんで、場所ももうちょっと分かりやすかったしなァ」
「そう、なんですか…」

 ずず、と桜子が淹れたお茶を啜った沖田は、最後のわらび餅を串に刺して口の中へと放り込んだ。

「梅があの辺で迷子になって、たまたま見つけたんでィ」

 思いもよらぬ方向から、あまり聞きたくなかった話題へと転換される。桜子は心臓が一瞬跳ねてしまったのを自覚した。梅―――呼び慣れている雰囲気がたまらなく切ない。もう何度も何度も呼んできたのだろう。

「…梅さんって、どういう方なんですか?」

 思わず、尋ねてしまった。自分が見ている梅と、沖田が見ている梅。同じかどうかを確かめる術は、これしかない。二人の間に無言が流れて初めて、桜子は自分の質問があまりに綱渡りだったことにようやく気づく。

「馬鹿………?」
「えっ」

 眉間に皺を寄せて真剣に考えている沖田の口から出たのは、桜子が想像していたものよりずっと辛辣だった。顎に手を当て、『いや違うな…クズ…?』というこれ以上ない悪口を言い始めている沖田に、桜子はうまい返しが思いつかない。自分が聞いたこととはいえ、ただの悪口が出てくるとは思わなかったのだ。

「まァ、真面目なんだか不真面目なんだかわかんねェクズってとこか」
「ちょっとそれは……思ったのと違うんですが」
「アンタが聞いたんだろィ」

 背もたれに体重をかけた沖田が、じとっとした目で桜子を見やる。質問の真意はなんとなく察していた。動揺したままの桜子に、今度は沖田が尋ねる番だった。

「アンタからはどう見える?」
「…私、からですか」
「話してたろ、前」
「話して…ましたけど」

 口籠る桜子だったが、梅の第一印象ははっきりしていた。

「…ちょっと怖い、が、本音です」

 絞り出すように言った本音。それは嘘偽りない、桜子から見た梅の印象だった。自分の恋敵だからとか、刀を振るう隊士の一員だから、などという理由ではない。その言葉に、沖田は僅かに口角を上げた。

「とっつきやすくて、明るい人だと思います。でも、何を考えているのかわからない…と、思いました。本当はお腹の中に何か、私が見てはいけないものをしまってるんじゃないか、とか……今はそういう印象を抱いています」
「……アンタ、勘がいいって言われやせん?」

 楽しそうに笑った沖田は、湯呑みの中の煎茶を飲み干した。カン、と乾いた音を立ててそれが小机へと置かれる。その様子を見ていた桜子は、言われた言葉の意味を一生懸命に噛み砕く。

「勘…言われた事ないです」
「あれ、そーかィ。思い違いだったかねェ」

 静かに立ち上がった沖田は、立てかけていた刀を腰へと差し直す。あくびをしながら肩を鳴らし、黙りこくったままの桜子を見下ろした。

「嫌いじゃねェけどな」

 沖田はそう言って伸びをする。―――嫌いじゃ、ない。それは好きでもないということか。それとも無関心ではないということか。桜子は汗ばむ掌を握りしめる。自分の答えが、正解だったのか間違いだったのかはわからない。だが沖田はそれ以上言及する気はなさそうだった。

 話と、この時間の終わりを察した桜子は、押し殺したままの気持ちがずくりと音を立てるのがわかった。

「沖田隊長」

 震える声で、咄嗟にその名を呼んだ。
 胸の中を占める気持ちに嘘はつきたくない。秘めておくこともできただろう。だが、良家に生まれて今日に至るまで、自分の本心に従って道を決め進んだのはここへやってきた時くらいだった。決められた人とこれからの人生を進むには、何も知らなさすぎたのだ。

 桜子は息を吸い込むと、肺一杯に溜めた。そしてゆっくりと吐き出す。

「私、沖田隊長のことが好きです」

 いつも震えていた声が、その時ばかりは凛としていた。自分の声とは到底思えない声量で口から出ていったその言葉は、目の前の男の鼓膜をも響かせる。パキッ、家鳴りが反響した執務室内。ものの数秒の静寂が、永遠に長く、幾時間にも思えた。―――その時桜子は、気づいてしまった。沖田の表情が何も変わらないことに、気づいてしまったのだ。

「―――アンタ」

 低いところから立ち上がるような声。いつもの戯れている時の楽しそうな声色からは想像できないその声色に、桜子の背筋に冷たい衝撃が走る。

「その隊長ってなァ、どういう意図でつけてるんで?」

 ―――時間が止まる。桜子の息もついでに止まりかけている。

「…えっ」
「いや、隊長隊長って言うから。俺ァ基本女中さん方には沖田さんって呼ばれることが多いもんで、ずっと不思議だったんでさァ」

 それ、今聞く?

 桜子は想像もしなかった展開に、脳内が危険信号と共に混乱していくのがわかった。私今、好きって相手に伝えたよね?この場合、返ってくるのって『ごめん』とか『考えさせて』とか『俺も好き』とか―――いや最後のはないにせよ、好きだという言葉に対する返答なのでは?

 桜子は動揺する自身の感情を無理やり押さえつけ、今一度深呼吸をして言葉を返した。

「み、皆さんが沖田隊長って呼ぶので…なんとなくです」
「あ、そう」

 そんなに興味ねぇんじゃねーか。

 あまりにも自分の爪を見つめながら興味なさそうに返事をするものだから、上下関係関係なしに思わず突っ込みそうになった桜子は、今の自分の感情が喜怒哀楽一体どれに当てはまるかさえわからない。―――ただ、はぐらかされていることだけははっきりとわかる。これで終われるわけもなし、今一度桜子はぐっと腹に力を込めた。

「―――沖田隊ち、」
「俺のために死ねるか」

 沖田は初めて、桜子の目を見つめていた。まるで、身を裂くような一言だった。嫌いだと言われた方がまだマシだったかもしれない。その言葉の意味を頭で理解する前に、心が拒否したのがわかったからだ。ドクンと脈打った心臓の鼓動が、速くなる。

「―――そう怯えなさんな。冗談でィ」
「………」
「じゃ、俺ァこれで。あと適当に置いといてくだせェ」

 今一度腰に得物を下げた沖田は、そのまま振り向くことなく執務室を後にした。一気に膝から力が抜けた桜子は、ストンとソファへと押し戻されるように沈み込む。

 俺のために死ねるか、なんて。その問いを投げてきたと言うことは、沖田が大事に思うあの子は、死ねると言うことなのか。桜子の目から、遠回しに振られた事による悲しさとも言えぬ涙が込み上げる。何も言い返せなかったことが、一番悔しかった。

 嗚咽が漏れる執務室の少し行ったところに、人影が二つ。

「うわ、聞いてやがった。趣味悪っ」
「…聞こえちゃったんです」

 気まずそうな顔をした梅の横を、沖田は立ち止まることなく通り過ぎていく。引き止めることもしなかったが、梅は大きく息をついた。すると沖田はようやく立ち止まって、一瞬こちらを振り返る。

「……なんでィ。やんのかコラ」

 その表情はいつもの憎たらしさ全開で、お前はいつでも死ねるんだろ、とでも言いたげだ。梅は重苦しい感情をなんとか打ち払って、息を吸った。

「……なんでもないです」

 そのまま再び歩き出した沖田と、逆方向へと進んでいく梅。さきほどまで晴れていた空に、深い雲がかかり始めていた。春は天気が変わりやすくていけない。

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