記憶の底に、長い間落ちていたような気がしていた。 遠くに光が見えていた。幼い頃の自分が現れて、手を引かれた。迷い込まされているのか、それとも助けてくれるのか。這いあがろうとしては、ずっと奥に押し戻されているような感覚で。ようやく視界が明るく開けた時、そこは真っ白な天井だった。 「……あ、」 梅は、久方ぶりに声を出したような気がしていた。微かに掠れた自分の声を聞いて、本当に長い間眠っていたことを実感する。簡素な病室、ひとつだけ置かれたパイプ椅子には、少しだけくたびれた沖田が、居眠りしながら座っていた。しかし、梅の起きた気配に気がつくと、静かに目を見開いた。 「無断欠勤十六日目。お前、今日から無職でィ」 突如言い渡された解雇宣言に、梅は朦朧としながらも口を開いた。 「労災下りて全然おかしくないくらい働いたような気がするんですけど………」 「お前がやったのは私闘。本来なら切腹のところ、俺の恩赦によってクビで済むんでィ。感謝しろよな」 「労基駆け込もうかな、今すぐこの足で労基駆け込んじゃおうかな」 梅は大きく息をつくと、徐々に蘇る記憶の断片を少しずつ繋げていった。久方ぶりに見た兄の顔も、段々と鮮やかに脳内を巡り始める。病室に置かれたデジタル時計に表示されていた日付は、最後に記憶していた日付より二週間以上経過していた。本当に長い間眠ってしまっていた。最後に見た沖田の頭に巻かれていたはずの包帯も、すっかりなくなっている。 「隊長」 「なんでィ」 「抱きしめてもらってもいいですか」 「はァ?」 お前この状況で何言っちゃってんの、とでも言いたげな声色。想像していたよりも遥かに想像通りというか、やる気なさげなその声に、梅は思わず笑った。 「生きて帰ってこられたんですよ、私。絶対死ぬと思ったのに。あの時、本当にそう思ったのに……」 「……兄貴庇って、でけェの一発貰ったみてーで」 「そうなんですよ。誰かの代わりに死ぬなら絶対隊長だと思ってたから、この上ない裏切りだと思って、これ生きて帰っても殺されるなと思ってたんで」 「いい覚悟じゃねェかィ」 沖田はゆっくりと立ち上がると、梅の胸ぐらを掴んだ。院内着が僅かに肌蹴て、包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい胸元が覗く。梅はピリッとした痛みに眉を顰めるも、沖田の勢いに圧されて動けずにいた。 「―――お前本当に、殺してやろうか」 怒りを孕んだ暗い瞳が、梅を突き刺す。視線で殺されるって、相手が相手なら本当にあるかもしれないと、嫌な汗がじわりと滲むのを感じながら梅は思った。 「ここまで、生きて帰ったのに、ですか」 少しでも視線を逸らそうもんなら本当に斬られそうだった。梅は震えながらそう問う。怖いまでの沈黙が暫し流れた後、沖田は僅かに口元を綻ばせた。 「冗談でィ。半分な」 「はんぶ―――んんっ?!」 がばり、噛まれるように吸いつかれた口元。口内を蹂躙する舌の感触が、ダイレクトに脳天に響き渡る。まだ病み上がりも病み上がり、点滴や医療器具がわんさかついた状態で、何をされているのか。生理的に滲んだ涙が頬を伝う。息がうまくできない。だが、何か大きく歪んだ愛が注がれていることは体感できる。 ようやく沖田の顔が離れていき、梅は大きく息を吸い込んだ。 「っ…は、ぁ……」 「生きて帰ってきてよかった今日からまたよろしくね、ってなるとでも」 「は……っ、なってくださいよ、そこは…、っ」 「努力はしやした」 努力はするが、それが結果として態度に出るかどうかはまた別の話。独占欲の塊とも言える沖田の腹の中は、この二週間いろんな感情が蠢いていた。送り出したのは自分だ。肉親とのわだかまりが少しでも解消されたのは喜ばしい。―――だが、勝手に自分以外の男に翻弄されたという事実だけは受け入れられなかった。 そして先ほどの行動に至る。 「で、お前これからどうするんでィ」 「どうって……怪我治して仕事復帰しますよ。クビにされたところで、行く宛ないですし」 「そうでもねェだろ。兄貴んとこがあるじゃねーかィ」 「……まだ怒ってます?」 「一生ブチギレてるかもわかんねェなァ」 楽しそうに、それでいてどこか含みを孕んだ笑みが末恐ろしい。梅は小さく息をつくと、沖田を再び見上げた。 「……もう一度言いますけど、私行く宛なんかないですよ。帰ってくるとこなんて、ここ以外あり得ません」 真っ直ぐな視線。裏表のない発言に、沖田は満足げに笑った。 「だろうねィ」 「わかってるじゃないですかァ!私はさっきから何を試されてるんですか!」 意図の読めない沖田の振る舞いに、痺れを切らした梅が叫ぶ。そろそろこのやりとりに気がついた看護師が、顔を覗かせてもいい頃だ。 沖田は壁に立てかけていた刀を手に取ると、よっこらせ、と勢いづけて立ち上がる。 「本当についてくる気があるかどうか、ってとこだな」 意味深な発言に、梅は再び眉を顰める。枕元に転がっていたナースコールを一回押すと、沖田はくるりと踵を返した。 「どういうことですか。意味がわかんないんですけど」 「そのうちわかりまさァ。今はせいぜい養生してくんな」 「えっ、ちょっ、隊長!」 スタスタと病室を後にしていく沖田に声をかけるも、彼は振り返らなかった。入れ替わりで入ってきた看護師の、間の抜けた声が響き渡る。梅だけが、取り残された病室で一人不安げな表情を浮かべたまま。 「よかったわぁ、隊長さんいる時で。包帯替えちゃうわね」 「あ……すいません」 ベテラン看護師の手によって、あっという間に古い包帯が新しく替えられていく。沖田の言葉を何度も脳内で反芻させながら、梅はシーツの白を見つめていた。 「隊長さん、毎日面会開始時間から終わるギリギリまで居たのよ。本当に心配してて、ちゃんと目覚ますのかって、何度聞かれたことか!」 「そう、だったんですか……」 「愛されてるわね、あなた」 楽しそうに笑う看護師を横目に、梅は先ほどの態度を少し反省した。そこまで心配してくれているとは、正直思っていなかったのだ。自分の命を粗雑に扱ってしまうのは、環境のせいとはいえ、そこまで沖田が案じていたと知ると歯痒くなる。 「そういえば、局長さんたちも何度か来て……そうそう、副長さん、あの格好もなかなか似合ってたわ」 「あの格好?」 梅の反応に、看護師は屈託なく笑って言った。 「同心なんて似合わないと思ってたけど、男前は何着たって似合っちゃうのよねぇ」 ―――同心。パズルのピースが歪むような感覚に陥る。どういう意味かと問う前に、看護師は意気揚々と続けた。 「真選組がなくなるなんて、最初はびっくりしたけどね」 背中が浮くような衝撃に、梅は看護師の肩を勢いよく掴んだ。驚いた看護師の表情が、みるみる青くなっていく。 「どういうことですか!?なくなるって、…っどういう、」 必死の形相で食らいつく梅に、もうてっきり聞いたのかと思っていた、と看護師が慌てた様子を見せる。そして息を呑んで紡がれたのは、信じ難く、そして紛れもない事実だった。 「―――解散することになったのよ、真選組」 本当についてくる気があるかどうか。 沖田の言葉の意味と現実が、ぴたりとはまる。全身の力が抜けた梅が再びシーツの上へと沈んでいく。冴え渡る空が、まるで真っ逆さまに落ちてきたような感覚とともに。 |