血に染まっていく視界の中で、地に倒れる妹を、兄は見ていた。 あの頃と比べれば、ひとまわりもふたまわりも大きくなった体躯と、生きる意志の宿った瞳。しかしそれでも、あの日振り解いた手の大きさは変わらない。 「……もういねェよ」 白髪の頭が真っ赤に染まった銀時が、高杉の前にゆらりと立ちはだかる。その目の奥に在るのはいつも真っ黒なはずなのに、見据えているものはいつだって―――あぁ、この男の本質は、何も変わっていないのだ。高杉は、右手に掴んだ刀に力を込めた。 「先生なんて、どこにもいねェ…俺たちを止められる奴は、もう俺達しかいねェんだよ」 力任せに薙がれた刀の切先は、銀時の木刀もろとも吹き飛ばした。それに応えるように、銀時の拳が銀時に貫かれる。 「気に食わねェなら、曲げらんねェなら―――てめェのゲンコツで止めるしかねェんだァァァ!!!」 横に転がる梅の、閉じていた目がゆっくりと開かれる。二人の兄が殴り合うその姿は、十年前に見たきりだ。悲しさなのか嬉しさなのかも取れない涙が、ひたすら頬を伝っていく。―――こうやって、さっさと殴りあってしまえばよかったのだと、独言ちて笑った。 松陽が死んだと聞いた時、梅は兄より銀時の後ろ姿が脳裏に過ぎった。高すぎや銀時達から遠く離れた地で、湧き出る天人達と接敵していた時だった。松陽に心を許していたのは兄だ。だが、松陽に心を預けていたのは、銀時だった。 「……この左目に、最後に映ったのは」 ―――憎しみは、次の憎しみを呼ぶと言う。 高杉の心の奥深くを蝕んだ憎しみは、いつしか天下をも貫く刃となってしまった。抜き身の刀身を仕舞う鞘はとうに壊れていた。松陽の死が産んだのは、それだけではない。 「……この目に灼きついた仇が、幕府一つであればどれだけ楽だったか。俺達の仇は、俺達自身だ」 ゆっくりと体を起こした高杉が、倒れたままの梅の傍へと歩み寄る。妹の腰に下がる刀は、昔己が預けた太刀だった。まだこんなナマクラを振って走っているのかと、その腰から刀を引き抜いた。 「兄、上……、」 「なぜ、何故……俺達なんぞを選んだ、銀時」 黙りこくった銀時に、高杉は問う。 松陽と相弟子の命を天秤にかけたあの日。もう思い出したくもない記憶の奥深く。仕舞い込んだままの憎しみが、音を立てて噴き出していく。 「もしあの時……お前が俺でもそうしたさ。だからお前は、俺に刃を向けるんだろう。だからお前は……己ではなくもう一人の己に刃を突き立てるんだろう。―――身を斬るより痛ェ仇を、討とうとしてんだろう」 立っている気力も体力も、とうに失っているというのに、銀時はそこに立っていた。 「残念だったな。俺は倒れねェよ。お前が倒れるまで、お前が止まるまで―――何度でも立ち上がる」 何もかも失った。 だからこそ、もう二度と失ってはいけないものが鮮明に見えている。自分の正解を求めて生きることを選んだ妹も、生きることも死ぬことも選べなかった兄も、救うつもりでここまできた。 「俺はお前なんぞを選んだ覚えはねェよ。―――ただ、お前が大切に思うものより、松陽が大切に思うものを知りすぎてただけだ。俺は……たとえ師の屍を踏み越えても、お前の屍を踏み越えても、アイツの弟子俺達の仲間、松下村塾の高杉晋助の魂を護る」 血が混じる息がすうっと吐かれて、銀時は言った。 「俺は吉田松陽の弟子、坂田銀時だ」 瞳に気圧された高杉が、くつくつと笑った。 「この期に及んで……てめェは、まだ…そうか…………知らなかったよ、俺ァまだ………破門されてなかったんだな」 その言葉を聞きながら、震える手で、梅は高杉が手にした自分の刀を掴んだ。それに気づいた高杉が、這いずりながら刀を取り返そうとする梅を見遣る。一度は捨てた、刀と妹。だが、舞い戻ってきたかのように、それら二つは今ここにある。 「……あの日地獄に落ちたのは、俺だけじゃなかった」 鍛え上げられた刀を見て、高杉は笑った。今一度、妹の腰に下がる鞘に、奪った刀をゆっくりと戻した。 「お前は、………どこまで俺を赦すつもりで、ここまで来た」 同じ色の髪が揺れる。梅は笑った。 「最初から……恨んでなんかない。………私達、憎しみ合うほどお互いのこと、知らないから、―――兄上の幸せが何なのか、ずっと知りたかったよ」 だから、教えて欲しかった。 何を喜び、何に怒り、何に心打たれるのか。今日から、今この瞬間から、始めればいい。間違い過ぎて歩んできてしまった今までを、上塗りするように。 「……恨めたら、どれだけ楽だったか」 手を伸ばした妹の手を、兄は握らなかった。―――握れなかった。 梅が、見知らぬ大人に手を引かれて自分の元から去った日も。東雲から逃げてきた梅に、利用するつもりで手を差し伸べた日も。兄と妹として、道を違えた日から。猜疑心の一つも見せず、梅は常に手を伸ばしていた。たった一人の肉親だから。ただ、それだけで。 「今度こそ、ちゃんとやれよ。兄妹喧嘩」 ここに来る時に銀時に言われた一言が、邂逅する。 「―――梅、」 本当に久しぶりに紡がれたその名前は、まるで自分のものと思えなかった。梅の目に溜まった涙が吹きこぼれる。高杉はその目を見て安堵した。今日ここで途切れる命なら、それでも構わない。心残りが一つ消えた―――その瞬間、風を切るように錫杖の甲高い音が鳴った。 咄嗟に前に出たのは梅だった。兄の袂を掴み、振り絞るように己の後ろに引きずり込んだ。錫杖の切先は、その小さな体を貫いていた。 ゆっくりと倒れていく体を、高杉は受け止めるしか出来なかった。 → |