嚆矢濫觴

異能の者らが犇めく魔都・横浜──
逃れられない闇夜から身を隠すように、煌びやかな一室に男と女はいた。真紅の口唇が囁く甘い魅惑に男は酔いしれる。伏せられた目にかかる睫毛の影は女をより儚く、淑やかに見せた。
男は抱き寄せるように黒の夜会ドレスから晒された女の二の腕へと手を伸ばす。小さくピクリと動く肩に男は自分の口元が持ち上がったのが分かった
ギラギラと捕食者の光を携えて男は女の耳元に口を寄せて囁く。女はくすくすと笑って首に腕を回して応える。やがて始まった愛撫に女は小さく反応してみせながら、背中越しに壁掛けの古時計へと目を向ける。──あと、もう少し
女は男の頬へ細い指を這わせる
温度のない冷たい指先の感触に欲望がぞわりと男の背中を撫でた

その刹那、チクリと刺す痛みに男は呻いた

視線を下に向けるとそこには女の手から注射筒が見える。その事実に困惑と疑念が渦巻き、やがてある真実に辿り着いた。
急速に遠のく意識の中で男は口にする。昨今の内務省にて囁かれる噂の忌み名を──黒欄の君。

背中に回していた男の手は女──薫子が纏う黒い夜会ドレスを倒れざまに引き裂いた
露わになった剥き出しの背中には無数の傷が残る。蚯蚓脹れの赤い爪痕から殴打痕まで。そして、男が事切れる直前まで握られていた細腕にはくっきりと手跡が残っていた

「また当分腕の出るものは着れないわね」

無感動に表情のないまま薫子は呟く
そこに感情というものはない
男に使った注射筒は回収した。男の死体から薬剤が検出されることはないだろう。完璧な病死と判断される…表向きは。
だが男が呟いた名は彼らの組織の中で私の存在が警戒され始めている証だろう。恐く、この男の死は瞬く間に内務省に出回る。…そろそろ潮時、かな

やがて時間ぴったりにホテルの扉から音を立てずに老齢の男が入ってくる。男は目の前の光景に動揺は見せず薫子へ労いを口にした。
背を露わにしたまの薫子にそっと自らの外套を重ねる。妙齢の女が痛々しい傷跡を晒したままであることに男は心を痛ませた

「ありがとう
掃除屋を呼んで。死体はこのままでいいわ」
「承知しました」

──ここ三年
薫子の呼び名は組織の内外で増えていった
先程男が口にした”黒欄の君”。…そして部下からは”氷の女王”とも。
鉄仮面を被ったまま声色も表情も変えない女は数限られた者の前でのみ、僅かに感情を滲ませる。月日を経て、功績を重ねる度に彼女は”人間”を失っていく

「痣が出来ておりますぞ」

男の言葉に薫子はふ、と微かに自嘲した
「痛まないから問題ない
ただ、消えるまでは自重しようかしら。」
薫子は少し考えてから続ける
「そうそう。まだ先の事なのだけれど、中也から仕事の要請が来ているの。中々大きい事のようだから掛かりきりになるわ。
広津さん、龍と樋口のこと頼むわね」
目下、薫子が信頼する部下は広津柳浪ただ一人である。その全幅の信頼に、広津は常に応えてきた。きっと、彼女の不在時もその役目を果せるだろう
「御意に」
深深と臣従の意を表する彼を連れたって、男の死体には目もくれずに薫子は部屋を後にした

それは先触れ、前兆し──
横浜を巡る異能の者らが綴る怪奇譚。
その開幕の調べであった




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