言承

ある執務室へ太宰は歩いていた
その歩調には迷いがなく、目の前に聳える扉を無遠慮に開く。一室の中央の執務机の向かいに、その人物はいた
「おや太宰君、君の方から執務室に来るなんて珍しいなあ。紅茶を用意させよう」
首領はどこか上機嫌にも、普段通りにも見える。私は生憎、薫子ではないので首領の感情の機敏を正確に察知することは出来ない。だが、そんな事に今は構っていられなかった
「首領、私がなんの為にここへ来たかご存知なのでは?」
そこからは怜悧な剃刀の上を歩くような心地だった。薄氷が割れ全身が凍えるような危険に満ちている。太宰が導き出した抗争の裏にある目的は、そもそも、前提から間違えていたのだ。織田作を呼び止めに行った薫子は無事に会えただろうか。恐らく薫子が呼び止めたとて、止まる彼ではないだろう。だが、それでも。一縷の望みに賭けたかった。私が知りうる限り、もう薫子にしか可能性はない
一刻も早く、太宰は彼を助けに行きたかった。だがもう一つ、黒幕たる森に聞いておかなければならないことがあるのだ

不意に、森の懐から着信音が聞こえくる
森は目の前の太宰に視線を移すことなく着信に応えた
「私だ。…そうか、ご苦労」
短い通話に太宰は悟った


「飼っていた金糸雀を逃がしてしまってね、部下に探してもらっていたんだよ」
見つかって良かった。にこやかな森と反対に太宰の声色は冷たい
「…金糸雀、炭鉱において瓦斯探知の役割を果たす愛玩鳥。貴方にとって薫子は…」
言葉を切った太宰に森は笑みを深めた
「私ではなく、安吾の下にやったのも。ミミックの動向を、異能特務課への交渉時期を正確に把握する為ですね」
「それだけではないよ。彼女には伝えたがね、安吾君の抜けた穴は大きい。それを埋めるための人員を確保するのも長たる私の役目だよ。安吾君の仕事を間近で見てきた彼女なら充分に務まるだろう」
「…本当にやらせたい事は別にあるのでは?」
「さあ、それはどうかな…彼女次第になるね」
「態々、安吾が特務課に保護されるタイミングで薫子を監禁したのも、安吾に会いに行かせるためですね。異能特務課を交渉のテーブルにつかせる為には安吾が生きていなければならない。薫子は、安吾の命を助けるための安全装置だった。」
「そうだね、真逆彼女が織田作君とも親交を築いていたことは想定外だったが。」
「織田作が死ねば、薫子はきっと生きていけません。」
「君は他の人間に彼女を見誤るなと云うが、太宰薫子を最も見誤っているのは、君だよ太宰君」
「どういう意味でしょうか」
太宰の言葉に森は応えなかった
薫子の進退に関して、森はいつも明確な答えは避けてきた。しかし、本当は森が云った通りなのかもしれない。薫子を誰よりも理解しているのは、兄である太宰ではなく、森の方なのかもしれない。この時、太宰は初めて薫子との血の繋がりだけではない、何か特別な絆を自覚した
希薄だった兄妹の関係は、いつの間にか融解していたのである。

「尾崎紅葉君がいるだろう。
彼女も嘗て、愛する人を喪った。だが彼女は生きている。幹部にさえ登りつめて、組織に最大の貢献をしている」
「薫子は異能力者ではありません。身を守る術さえ持たない。尾崎幹部とはそもそもの土台が違う」
「…見解の相違だね」
森はふう、と椅子に深く凭れ言葉を続けた
「鳥が籠から出たがった時に放してしまえば、もう二度と戻っては来ない。幼い雛の内に外界の恐ろしさを知っておくことが寛容なのだよ。力がなく、庇護してくれる親鳥も飼い主もいない状況を知った時、籠から出ることを諦める。学ぶのだよ、魚は水がなければ死ぬように。籠の中でなければ生きる術がないと」
「…貴方は口では人事処分を謳いながら、心の内では薫子をポートマフィアから出す心算はなかったと。そういうことですか」
「そう聞こえたなら、そうかもしれないね」
「…薫子を、どうしようというのです」
それは、幹部・太宰治としてではない。薫子のたった一人しかいない兄として──太宰が森に初めて見せた、妹への情だった
「薫子君の望みに沿うよう善処はするが…怪我をしているようでね。当分は療養させよう」
太宰はそれに返事はしなかった。ただ冷たく憤りを孕んだまま黙る。やがて、諦めたように息を吐き、聞きたいことは聞いたとばかりに踵を返す
それに反応し、森の部下達が一斉に銃口を向けた
「君は行ってはならないよ太宰君、ここに居なさい。それとも、彼の許に行く合理的な理由でもあるのかね」
「云いたい事が三つあります、首領。」
太宰は振り返り、細めた目で森を見据えた
「一つ。貴方は私を撃たない。部下に撃たせることもしない」
「何故かね。君が撃たれることを望んでいるから?」
「いいえ。利益がないからです」
森は思わず微笑んだ。図星だったからである
「確かにそうだね。だが君にも、私の制止を振り切って彼の許に行く利益がないだろう?」
「それが二つ目です、首領。
確かに利益はありません。私が行く理由は一つ。…友達だからですよ」
そして、と太宰は続けた
「三つ目は、…確かに貴方の言う通り、薫子は生きる決断をするでしょう。ですが、喪失を乗り越えたその先できっと…貴方の許から飛び立つ日が来る。私や、織田作…安吾も、自らの足で歩む力を見せてきましたから。…それでは、失礼。」
部下達は引き金に指を掛けた
だが、それを気にもせず太宰は散歩でもするような足取りで扉から出ていった。森は腕を組んで太宰の背中を薄笑みで眺めたまま、何も云わなかった




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