誰もが寝静まり、音という音が消えていく頃。
青白い光がゆらゆらとブラインドの隙間から差し込むのを妹子はじっと見つめていた。
むくり、とベッドから起き上がらせると布団から身体を滑らした。
床に降りると、足の裏に伝わるひやりとした感触に思わず身震いしたが、唇を噛み締め堪えた。

「僕だって…一人で…」

入院当時は気になったツンとする消毒液の匂いは、夜中のせいか、麻痺した嗅覚のせいかちっとも感じない。
ぼんやりと非常灯が光る不気味な廊下を、妹子は必死にスロープを掴みながら足を前に進める。
一歩ごとに増える額と掌の汗。
たった数歩歩いただけで、叫びだしそうな程の痛みに足ががくがくと震える。
心を占める焦燥感と、絶望感に負けそうになる。

「歩けるんだ…僕は…」

(駄目なんかじゃ、ない)

ぎゅう、と涙交じりに瞑られた瞳の奥では、歯ぎしりをするほどの悔しい記憶、苦しい記録。


『もう、あの子は自力で歩けないんですって…』
『受験にも失敗したのに、更に障害まで背負いおって…』
『これから、一生どうすれば…』
『本当に昔からお兄ちゃんと違って、肝心な事は何にも…』


「だ…め、なんか…じゃ……」

その言葉を嘲笑うかのごとく、自分の下肢は言う事をきかない。
気持ちばかりが進んでいって、己の体は追いつかず、焦りに心臓ごと押し潰されそうだ。
なんで、なんでこの足は……!!


「驚いたな」


ぽつり、と静寂の中に落とされた独り言のような呟き。
ハッと顔をあげると、いつのまにか数歩先に男が立っていた。
上着を片手に何か思案するように顎をさすり、妹子を面白そうに見降ろす。

「な、んだよ…」
「小野妹子、18歳、先週水曜日に自転車事故により下半身麻痺の後遺症が残る。あのセンセは君が歩く事はほぼ出来ないと踏んでる」

淡々と事実を話す彼は、まるでそれらの情報に興味がない様に見える。

「私は違うけどね。下半身麻痺でも歩けるようになる人なんてゴマンといる」
「あんた、誰…」
「さあ、誰でしょう」

少しおかしそうに口元を引き延ばす彼。見ていて、こんなに腹の立つ人物は見たことない。

「まあ、今日はこれ位で休みんしゃい。無理が、そのまま成果に繋がるでもない」

そう言うと彼は、ひょいと妹子の体を腕に抱いて病室のドアに向かう。
突然された格好に、今までの男としてのプライドもあったもんじゃない。

「ちょ、はなし…!」
「お前、軽いなあ〜車いすなんか使わなくて正解。これ以上、痩せたら脳に障害が出そうだ」

何故か嬉しそうに笑いながら、ベッドに妹子を横たえると、さらり、と頭を撫でた。
優しい声音と、温かい掌に、誰かに甘えたい心の弱さが頭をもたげる。
こんな、初めて出会ったばっかりの人に、訳の分からない人に、そんな事。

「頑張れ、って言われても怒るなよ」

グッと涙をこらえる妹子に、そっと彼は呟いた。

「全部、私に言えばいい。意地っ張りみたいだから、どうせ頑張れって言われてもお前は笑うんだろう?」
「……」
「『自分の辛さを知りもしない癖に』 って気持ちを押し殺して、な」

自分を悪くする事で、全てから逃げる。一番、楽で、一番、しんどい。

「それ、私の前では厳禁な」
「あんたと何の関係が」
「まあ、それは明日な。おやすみ、妹子」

くしゃり、と髪を撫でられ、そのまま彼は出て行ってしまった。

「呼び捨てすんじゃない、馬鹿野郎…」

張りつめていた緊張が解け、最後まで堪えていた雫が一筋だけ頬を伝っていった。



「あ…あんた…」
「初めまして、を昨日は言い忘れたな。まあ、どうでもいっか」

ニッ、と笑った彼は薄水色の半袖の白衣を纏っていた。
胸のプレートには、理学療法士という文字が並ぶ。

「理学…療法士?」
「知らないのか? この世で一番、知名度が高い職業なのに!」

それは嘘だろうが、その職業名とやる事を妹子は知らないのは事実である。

「簡単に言えば…芋っこを歩けるようにお手伝い、って所か」
「芋って言うな!!」
「ぶっふぉう! 足は使えない癖に、いいパンチ持ってるよ、こいつ!!」
「元々、登山やってたんで」
「そこは、空手とかメジャーな格闘技だろ普通!?」

うるさい人だと思った。
けど、やたらに嘘くさい笑みを浮かべる優しい医者やらがたむろしてる此処では珍しい位に表情豊かで。

「痛過ぎたら我慢はしない事。頑張らばなければ、と義務感を感じない事。あ、ついでに私を太子様って呼ぶのも」
「死んでも呼ぶか」

いじけられた。



「ほれ、1芋、2芋、3、ぶふぉう!」
「うるせえ!!」

気分が萎えるような掛け声に、つい手が出る。
元々はこんなに気性は荒くないはずなのに、調子が狂う。

「はあ〜どうりで先生がもてない訳だ…」
「な、何をっ!? そんな事ないわい! 誰が言ったんだよ、そんな事!」
「看護婦さんと、」
「看護師、ね」

どうでもよさげな所を訂正された。

「…口腔の看護師さんと、こないだ連れってって貰った外科の先生たちが…十人位?」
「結構な数だし…」

膝を付いて落ち込む所を見ると、相当にショックなんだろう。
逆に、噂は本当って事か…。
密かにほっと、温まった心が口元を緩める。

「むっ、芋まで馬鹿にしおって!! 私だってなあ、私だって恋人の1匹や2匹…」
「哺乳類なら何でもいいなんて言いませんよね」
「わ、ワンちゃんは恋人なんだぞ……」

家族と言え。あんたのソロモンは、どっからどうみてもオスだろうが。
まだ、一人で立てる時間は少ないけど、1,2歩なら歩けるようになってきた。
その成果を、直に感じたのは家族が僕に対して嬉しそうな顔を見せるようになってきた事からだ。
あんなにも、あんなにも家族のせいで、辛い思いをしたけれども、彼らが笑うと心が徐々に軽くなっていく。
やっぱり、何だかんだ言って、僕は家族が好きなんだろう。

「当たり前だ。お前を生んだ人らなんだからな」
「でも、不思議ですね…高校通ってる時はうっとおしくて、何にも理解してくれない、子供みたいな奴らだ、って思ってたんですよ」
「大人、なんて言ったって人間だからな。子供を中心に考え過ぎて、自分を殺してきた親は多い。分かって欲しいって考えるのは誰だって同じなのにな」
「迷惑、ばっかりですよね…」
「18で迷惑かけない子供を見てみたいもんだ」

太子は紙コップのコーラを傾け笑った。
夕焼けに染まる休憩室で、妹子は手の中のコップの水面を虚ろに眺める。

「もうすぐ、退院出来るな」

目を細め、愛おしそうに髪を撫でる太子。
されるがままに、その感触にゆだねる。この少し大きな掌が、温かくて、離れがたい。

「先生は…これからも此処で、働いてるんですか?」
「まあ、一生の仕事になれば、とは思うよ」
「結婚、しないんですか」
「痛い事きくなよ…いつかしてやるよ、いつか。まあ、放任主義の家庭だから私が独身でも気にしないんだろうけどさ…」

ぶつぶつと、何か言い訳をする太子に、妹子は顔を上げて真っ直ぐに目を見据える。

「僕、先生が好きです」
「……ありがと」
「多分、そっちの好きじゃないです」
「……え、と」
「病院内では患者に告白される先生が多いと聞きました。まあ、此処閉鎖空間ですし、こんな状態で優しくされたら誰だって嬉しいですよね」
「…」
「気持ち悪い事、言ってごめんなさい」

覚悟を決めてきたのに、喉が震える。怖い、付き放されるのが、ごめん、と言われるのが。
叫びだしそうなほどの恐さに体が震える。

「何で、気持ち悪いんだ。妹子に好きだと言われて、嫌な奴がいるもんか」

思いがけず穏やかな声音に、泣くもんか、と決めていたのに堪え切れず目元を滲ませる。
最後まで、最後まで言うまで、どうか待って。

「で、も先生も…信じて、貰えないでしょう?」
「まあ、そういう告白に覚えがない訳じゃないからな」

申し訳なさそうに、苦笑して頭を掻く太子。
そうやって、何度も嫌な思いをしたんだろうに、ちっともそれを感じさせない。
そういう所は、やはり全て含めてプロなんだろうと思う。

「なら、もう一度、告白したら、信じて貰えますか?」
「というか私、男…」
「ええ、可愛い愛くるしい女の子には見えない、臭い、かっこよくもないおっさんですが何か?」
「オプションを付け過ぎだ………もう、一度って?」

どうやら、無下に申し出を付き放される事はないらしい。
だから、この人なんだ。

「1年後に、また会いに来ます」
「?」
「僕は、自分で決めた将来を歩きます」
「ちょ、どういう」
「もし、付き合って貰えるならキスのひとつでも下さいね」

恥かしそうにそれだけ言うと、妹子は車いすのロックを外し太子に背を向ける。

「今まで、ありがとう、ございました」

彼の息を呑む音が聞こえた。
最後に、馬鹿とでも言ってやりたかったけど、声が震えそうで出来なかったのが少し残念だった。






病院の中庭の桜の下で楽しげに駆け回る子供たちが見える。
ガラス越しの太陽は、久しぶりに眩しく、きっと屋上のシーツもよく乾くだろう。
机の上のカレンダーはひと月前の物で、それを千切ってゴミ箱に放り込んだ。

「あ〜、もう四月かあ…」

ふ、と懐かしい、あったかいのか、おかしいのか、よく分からない、そんな記憶が蘇る。
臆病な心は、彼を信じるのを恐れていて、その癖、忘れられないなんて。

「どうしてるかな…」

彼の事を思い出すなんて、久しぶりで、何だか少し切なくなった。
弱弱しく苦笑いをし、首を振って気持ちをきりかえ仕事場へと向かおうとドアを開けた。
そこには。

「こんにちは。保健の理学療法学専門に入学した、小野妹子です」

固まる私に、少し大人びた感じに笑う彼が言った。
どうやら、約束を覚えてると確信したらしき彼は、ニッと悪戯っぽく笑った。

「出来れば、キスが欲しいです」




世界からおいてきぼりを喰らう





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選択お題『世界からおいてきぼりを喰らう』
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