月がきれいですね。
「こんばんは」
挨拶が聞こえた。夜間の挨拶だ。
それはすぐ近くで聞こえた。目の前にいる女子から発せられたものではない。背後だ。誰かが挨拶をして“来た”のだ。
仕方なく後ろを振り向くことにした。仕方なくだ。挨拶をされたからだ。聞き慣れない声だったからだ。そんな、大したことない理由だった。
――しかし…… 俺はなぜ、振り向いてしまったのだろうか?
「こんばんは」
目の前に現れた女が、俺にやんわりと微笑んだ。あまりにも完璧すぎる微笑に、俺は固まった。数十秒、声が出なかった。発する言葉も浮かばなかった。脳全体が、この現状に圧倒されていた。
「銀さん? どうしました?」
誰かに話掛けられた。この声。新八だ。俺の横に座っている、新八。ああ、新八。新八、あれ、なあ、新八……
し……あれ、えっと……あ、れ、…に、逃げ、ないと……。
頭の中で何かが弾けた。俺の中の考えだ。いや、予感だ。呼吸困難になるくらい、とんでもない破壊力の予感が。
「…銀ちゃん?」
すぐさま、新八に顔を向ける。新八は、俺の顔を見てぎょっとした表情を浮かべた。
俺は、口を動かす。
「え? ちょっ、銀さん聞こえないです」
とぼけられる。しかし、俺は口を動かす。でもなぜか空気が排出されない。声にならない。
「ぎ、銀さ……」
口を動かした。声にはならなかった。しかし、気息性成分しかない俺の訴えから何かを察したのか、新八の動きも硬直した。
すると新八は、俺の眼を見ながら、口を動かした。口元だけを動かした。俺と同じように、“逃げろ”と口にした後、小さく首を傾げた。
俺も小さく頷くと、新八と神楽に指をさし、また訴えてみた。逃げろ、と。これ以上は、新八や神楽に察してもらう他ない。俺はこれ以上、動けない。断言できる。だって、もう口を動かすことができない。二人を指させるくらい腕を持ち上げることができない。
分かるだろ。大丈夫。みんな分かってる。
俺は、この女を、ひどく、哀れなほど、怖がっている。
「銀時さん、こんばんは」
的確に指名されたその挨拶に、思わず肩を震わせた。きっと、振り返ればそこには完璧な微笑があるのだ。振り向く必要はない。だって、分かってる。想像ができる。
でも、なぜ。
なぜ、俺は。
そちらを、向いてしまうのか。
「銀時さん」
女は、俺の名を呼ぶ。なぜか。分かる。分かってる。俺が、俺が。俺が、目的なんだろう、か。
「こんばんは」
腹を小さく揺らして、声を出す準備をする。懸命に試みる。
ひっ、と上ずった声が出た。しかし、言わなければ、きっと進まない。
「……こ、こん…ば…は」
――言えた。はあ、言えた。言えた。言えた…。
すると、女はまた微笑んだ。さっきと違う、笑みだ。丸く弧を描いたような瞳、口。
まるで、月のような。
「銀時さん」
「っ………は…い」
「銀時さん。今日は、月がきれいですね」
月。そうだ。今日は満月の日。
満月がきれいな日だ。そうだ。月。月だ。
呼吸が、荒くなる。犬のように息をする。身体中から汗が吹き出すも、身体はなぜか熱くない。それどころか、寒い。ひどく寒い。気持ち悪い。
「銀時さん。今日は月が」
「っ、き、……きれい、です、ね」
なんだか怖くなって、同調してみる。はいはいと頷いておけば、早く帰ってくれる気もした。
「とても、きれいですね」
笑みが、目の前に浮かぶ笑みが、
まるで月のようで。
「あの日みたいに。
とても、痛いくらい、きれい」
笑みが。
笑みが、変わった。
笑みが、ぐにゃりと曲がって、それは、
それは。
「っは、は、っ、は」
吸い込まれる。この笑みに、怖い、暗い溝に。
女は俺を誘っている。
女は俺を、俺を。
「銀時さん」
「……」
「お友達がいますね。銀時さんみたいに、やさしそうな、やさしそうなお友達」
「……ち、こ、こいつらは…」
「お友達は、月が好きですか?」
「……は」
「お友達は、月が好きですか?」
「……こいつらは、」
「お友達は、月が好きですか?」
もう、駄目だ。
汗を飛ばして、勢いよく女の前で土下座をした。上から聞こえてくる問いかけには返さずに、ただただ謝った。謝り倒した。許してくれると思った。許して、帰ってくれると。
「銀時さん」
「……は」
「銀時さんは、月が好きですか?」
「……っ、は」
「銀時さんは、月が好きですか?」
「……す、す、き、です」
「そうですか。銀時さんはほんとうに月が好きですね。
知っています。
わたしを殺した日も、ほんとうにきれいな月でしたから」
――。
「――あ」
顔を上げた。そこには、笑みではなく、俺を睨む女の顔があった。すぐ近くで、俺を睨んでいた。
「ひっ」
気を失いそうになった時、誰かが腕を引っ張った。そして、俺の両肩を掴んだ。
――あの女か。
ぼんやりとしか焦点が合わないが、目の前にいるのは、あの女ではなかった。
新八だった。心配そうに、俺の眼をじっと見て、俺の名をゆっくりと呼んだ。
「銀さん、どうしたんですか、一体。おかしいですよ」
「………新八」
「銀ちゃん、どうしたネ。真っ青。汗も…」
「か、ぐら……は、早く、はやく、逃げろ……」
「…どうして逃げなければいけないんですか?」
「だっ、だって、き、来て、そこに、今、俺を、お前たちを、こ、こ、こ」
「銀さん」
「こ、殺し、に」
「銀さん」
新八はひと回り大きな声を出すと、俺に告げた。
「そこには、誰もいませんよ」
「……は」
「この部屋には、銀さんと僕、神楽ちゃんしかいません。誰も、来ていません」
「……な、だ、だって、そ、そこ、そこに」
「大丈夫です。そこには誰もいません」
「ち、が、だ、そこに」
「大丈夫です。僕たちがいますから、見てみてください。そこに、誰がいるか」
「だって、新八」
「銀さん、大丈夫です」
新八に押されるも、錯乱状態にいる俺は、中々新八から顔を逸らすことができなかった。しびれを切らした新八が、俺の肩を押した。バランスを崩した俺は、新八から目を逸らしてしまい、そこにいる女の――
――女?
「…いないでしょう、銀さん。どこにも、誰も」
「……あ…」
「……銀さん、何が見えていたのかは分かりません。銀さんが教えたくないのなら、聞きません。ですが、その胸に大きな悩みを抱えているのなら、どうか教えてください。銀さん一人が苦しむくらいなら、僕たちも」
「そうネ。銀ちゃん、一人で悩まないで、何でも言ってヨ。私たち、家族でしょ」
新八と神楽がニッと笑った。安心感のある、笑みだ。見たかった笑みだ。
「さあ、じゃあ、話すか。あれは、満月の日、俺はあの女を殺したんだよ」
そう、すらっと言えるはずもなく、俺はああ、と頷いて、はあ、と大きくため息を漏らした。
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