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なぜだろう。
どうして、涙が止まらないのだろう。
どうして、震えが止まらないのだろう。
私は、想像以上におかしくなってしまったのだろうか。


路地裏。私が今居る場所を指す言葉は路地裏だ。それも、狭く、暗い。
小汚い、目やにがついた猫がにゃあと私に鳴いて、なにも褒美をくれないのだと分かると、私から去っていった。そんな場所だ。
私はそんな場所で、ボロ屋のすぐ近くに、ひとりうずくまっていた。丸まるように下を向いて、股の下になにか視えるわけでもないのに、暗い土の床を、ただただじっと見ていた。目を瞑っても開けてみても何ら変わりがない、真っ暗な世界を、私は何度も瞬きをする。目からあふれる涙が鬱陶しいのだ。まつ毛にかかって鬱陶しいので、何度も瞬きをして地面に落とす。
そんな行動を数十分続けていた私は、誰かが近くにいるかもしれないのに、つい言葉を漏らした。

「死にたい」――と。声にならない声だったように感じた。


***


時刻は何時であろうか。一瞬そんな問いが生まれたが、全く以て答えを探す気力はなかった。私の脳内に埋め尽くす言葉は、ただ、“死にたい”それだけだったのだ。ではなぜ、“死にたい”とずっと思っているのに行動に移さないのか。その答えは簡単だ。臆病者だからだ。死ぬ手段はごまんとあるのに、私は行動に移した瞬間、“あの男”に遭遇するのが恐ろしくて、なかなか行動に移すことができない。
“あの男”とは私が今命からがらに逃げてきた悪魔のような男なのだが、奴のことは思い出したくない。考えたくもない。なのに、脳内に“死にたい”という言葉と同時に悪魔の奴の顔が浮き上がるのはなぜだろうか。忘れたいものに限って忘れられないものだ。記憶力が悪い私なのに、こんな時に限って記憶力を保つなんて、本当に馬鹿みたいだ。今すぐ、死んでしまえばいいのに。
逃げていた時から震えていた手足を見るのが鬱陶しく、力が入っていない右手の人差し指で、左手の皮をつねる。震えていて、つねっていたのか分からないくらい意味のない行為だった。

少し顔を上げて、傷だらけで骨だけ、と言われても過言ではない腕を見る。どうしてこんなにも傷だらけなのだろうか。どうしてこんなにも汚い手なのだろうか。どうして”あの男”は私のことを蹴ったり、殴ったり、切ったり、愛してると言って抱き締めたり、出来損ないと言って煙草の火を押し付けたり……どうして、私をこんなにも苦しめるのだろう。どうして、どうして私なのだろう。どうしてなんだろう。どうしてなんだろうね。どうして、どうして。
さっきにも増して涙が溢れて、嗚咽を手のひらで隠しても耳に入るくらい泣いていた。そんな時、背後から声が聞こえた。嗚咽を超える声。私に投げかけられている言葉のように聞こえた。

「おい。そんな所で何してんでィ。失恋でもしたのかィ」

その声のせいで、一瞬心臓が止まった。私に話しかけているのか。そうだったら、話しかけないで。近寄らないで。関わらないで。やめて。やめて。やめて。
やめて、と何度も心中で訴えているのに、背後にいた男は地面の砂を容赦なく踏んで音を鳴らして、私に近付いた。そして、私の前へ座り込んだ。私はずっと俯いていた。心臓がばくばくと、壊れたように音を立てていた。苦しいくらい。

「…なァ、あんた」

男の人の声だ。怖い。ごめんなさい。

「なんで、そんなに震えてるんでィ」

意外な問いかけに、私はびっくりした。ああ、確かに震えている。でもこれは、“あの男”とあなたのせいだ。だから、放っておいてください。

「…聞こえてんのか」

低い声に、怖さを感じた。私は震えながらも、頷く。吐きそうだ。

「…その傷、誰にやられた」

――言えない。

「…その傷やった男は、近くにいんのかィ」

――知らない。そうだったら、怖い。

「…頷くか首横振るかでもいいから、意思表示だけして下せェ。取って食いはしねェんで。ちょっとだけ、あんたのこと教えて下せェよ」

彼の言葉を聞きながら、私は気付く。気付いた。あの人に似てる、と。それと同時に寒気がぞわりとした。まずい。

「…ぁ、…、の」

声を、絞り出すように出す。

「……ほ………ぃ、って、……ぃ」

声を出す。数回咳をして直してみる。放っておいてください、と、出しているはず。出しているはずなのに、なぜだ、言葉にならない。口は動かしているのに言葉どころか、声にならない。どうして。
…ああ、私は”本当に“言葉を話すことをできなくなったのか。

「…声が出ねェか。…会ったばかりの男にこんなこと言われても恐怖しかねェと思うが……俺に黙って着いてきて下せェ。あんたが落ち着いて話すことができる場所に案内する」

落ち着いて話すことができる場所? それはつまり、良い人が集まる場所? それとも悪い人が集まる場所? この人が優しいのが当たっていたら、前者で当たっているんだろうけど、それでは駄目だ。駄目なんだ。みんな死んでしまう。あの人と同じように、死んでしまう。
優しい人は私と関わってはいけないのだ。

「…ちょっと、悪ィけど立たせやす」

ひょいと腕を掴まれ呆気なく立たされた私は、ちょうど、目の前の男の人と目が合った。男の人は私の顔を見て目を丸くした。私は口を動かす。声が出なくてもいいから。必死に口を動かして伝える。
じっと私の顔を見る彼を見ながら、私は、なぜか意識を失った。


***


目が覚めたら、白い天井が視界に入った。何回か瞬きをする。
ここは、どこだ。

「おお、目ェ覚めやしたか」

その声にびくっと身体を揺らして声の主の方へ振り向く。さっきの男の人だった。私の横で、彼は一口サイズの果物を口へ放り込むともぐもぐとさせ、ごくんと飲み込んでいた。
…これは一体、どんな状況? なぜ私にベッドにいるの?

「いきなり倒れるたァ思わなかったぜィ。よく分かってねェと思いやすが、ここはあんたの怪我と気疲れを治すための慰安場所、病院でさァ。まァ自分の家のようにくつろいでくだせェ」
「……」
「あ、もしかしてこのリンゴ食いてェですかィ。仕方ねェ、俺があーんしてやるから口開け」
「総悟。何やってんだお前」

だ、誰か別の人が来た…!
男の人の後ろにある扉が開かれ、黒い服を着た黒い髪の目つきが悪い人が室内へ入ってきた。総悟とは、この栗色の髪の人のことだろうか。
私は退くように身体を起き上がらせる。

「チッ。もう来たか。土方さん空気読んで下せェ。俺ら仲良くなろうと今いちゃつこうとしてた所なんでさァ」
「知らねーよ。いちゃつく必要ねェしな。つーか、目ェ覚ましたのか」
「ええ、さっき。倒れて、ここは病院だってとこまで教えやした」
「そうか」

黒髪さんは栗色さんの横に座る。パイプ椅子があるようだ。
…あれ、なに、なにこの状況。私は夢を見ているの? え? 私さっき意識失ったの? 何で?

「勝手に病院連れてきて悪ィな。栄養失調に加えて身体中怪我だらけな所為か、しばらくの間入院しなくちゃいけねェらしい」

…え、入院?

「俺らは警察だ。あんたに悪いことはしねェ、むしろ助けてやる側の人間だ。だから、そんな怯えた顔すんじゃねェ」
「…」
「単純にあんたの顔が怖ェんでしょう」
「うるせぇな。さっきマヨの補充したから顔色はいい方だ」
「顔色の問題じゃねェでさァ」
「まァともかくだ。病院内や外も警備の者を置いておくから安心してくれ」

安心してくれと言われても。
……安心できるわけない。
そう言おうと、口を開くもやはり声はかすかな声しか出ない。伝えられない不甲斐なさに俯くと、栗色さんが「なんか伝えてェことがあんなら、ここに書きなせェ」と、私に中くらいのメモ帳とボールペンを渡した。私はその心遣いに素直に頭を下げる。
で、でも…何を書けばいいのか。
二人の視線が痛い。ボールペンを握りながら、私は何を書こうかとフリーズする。安心できるわけがない。と書いたところで、相手に喧嘩を売っているし、何より「は?」となるはずである。…だから、そうだな。
私は“ありがとうございます。でも私は大丈夫ですので、もう帰ってください。警備の人もいらないです。”そう書いて栗色さんにメモを見せた。栗色さんは読むと、怪訝そうな顔をして「…大丈夫じゃねェでしょう」とつぶやいた。

「……あんたはひどく疲れてるし、一刻も早く身体を休ませなきゃいけねェ状態ってのは分かってる。けど、あんたをそんな状態にさせた奴を探してェんだ。…だから、一日一日でいいからあんたのこと俺達に教えてくれねェか」

そう、黒髪の人に真剣な表情で言われ、メモ帳を返されていない私は「嫌だ」とも言えず、仕方なくその場しのぎの為に頷いた。
悪ィな、と謝った黒色さんに名前、住んでいた場所を聞かれ、私は名前は正直に書いたが、住所?となった。住所……私があそこに連れて行かれたのは五年くらい前だからな…えっと…品川の品川寺の近くだ。というかここはどこなの? どこの病院? 私の知っている所?
住所は分かんねェのかと促され、私は慌てて”品川寺の近く”と書いた。見た黒髪さんが「ここからは微妙な距離だな」とつぶやく。そして「品川寺からどうやって歌舞伎町まで来たんだ」と新しい唐突すぎる質問。難しい質問だ。え? てかここ歌舞伎町なの? 新宿の?
何とも答えられない質問なので黙っていると、「ああ、まァ無理に答えなくていい」と言い、何とかこの質問はなくなった。セーフ。そう思っていたが、栗色の人が間髪入れずに口を開いた。

「頷くか首横に振るかでいいんで、質問。あんたは悪ィ奴から逃げてきた。合ってやすかィ?」

悪いやつ。悪いやつと表現するほど生温いやつではないが、良いやつ・悪いやつで判断すれば後者だ。私は数秒空けて小さく頷く。

「…その悪ィ奴ってのは複数かィ?」

――複数? まあ、でもそうなのかな。でも命じているのはあの人だけだし…。まあ、でも複数か。
私はまた、小さく頷く。

「…そうか。分かった。有難うな、教えてくれて。助かった」

黒髪さんが私に礼を言うと、室内にある時計を見て、立ち上がった。同時に、私に「なんか食いてェもんあるか」と尋ねてきた。
た…食べたい物? 特にない…けど、答えなくちゃいけない空気…?
黒髪さんが急いでいる様だったので、私は急いでぱっと浮かんだ食べ物“リンゴ”を書く。その言葉を見た黒髪さんが「リンゴ? それならここに…ってお前ェが食ったんかい」と栗色さんの頭を叩いた。二人の揉め方から察するに、私への見舞果物みたいなものだったらしい。栗色さんが「大丈夫大丈夫。最高に美味いリンゴ買ってきやす。土方さんが買ったモッサモッサした安っぽいリンゴじゃないやつ」と言うと、黒髪さんが「それは悪かったな」と睨んだ。
…大体この人達の名前が分かった。栗色さんが“そうご”さんで、黒髪さんが“ひじかた”さん? なのかな。…仲良いなこの人達。
どうしていいのか分からず二人のじゃれ合いを見ていると、黒髪さんが「悪ィな。俺は仕事に戻る」と私をちらりと見て言った。私はこくりと頷く。…え、栗色さんは?

「こいつはどうせ仕事に戻ってもサボるだけだからここに居させる。総悟。寝んじゃねーぞ」
「ラージャ」

え!? いや、え、一人になりたいんですけど…!?
こいつも連れて行ってください顔をすると、栗色さんが「まぁまぁ取って食いやせんから」とにやりと笑った。
じゃあな、また来る。と部屋から出て行った黒髪さんを見て、マジか…と、思ったのは、時計の短針が指す三時のことだった。