「    」

彼の口元はゆるく動いて閉じた。それは確実に私に向けられたものだったのに、グラウンドから聞こえる野球部の熱心な声出しに掻き消されてしまってもう耳まで届かない。もう一度、とお願いしようと思ったのに既に彼は分厚い本を何冊かカバンにしまい込んで廊下への扉を開いていた。


毎週木曜の放課後は私の担当だ。そこそこ広くずらりと並んだ本の波は可哀想なことに私を始めとした生徒たちにあまり必要とされていないようで、図書室はいつだって人気が少なく静かだった。
そんな中でも彼は必ず木曜に数冊借りて返してを繰り返す。難しそうな本からこの前映画化された原作まで、本当に様々な種類を沢山読むから余程好きなんだと思う。それに比べ私は本と言ったらマンガか雑誌しか読まないから彼の頭をいつまでも覗けない。今まで彼が読んできた中でも一番簡単そうな小説だって、まだ数ページしか進んでない。

「     」

雑音に紛れて微かに拾った音と、あの形のいい口の動きを必死で思い出す。彼の言ったことに全く見当がつかないわけではない。でも確証はないし、これじゃあ余りにも私は可哀想な女だ。早とちりはやめよう。また、来週になれば彼は来る。




そして今日はその木曜日なのだけど、一向に彼が来る気配はない。それどころか他の生徒だって来なくって、みんなこの学校に図書室あること知らないんじゃないのかと疑いたくなる。
今日は野球部の練習もお休みのようで、風が通る音しか聞こえない。人が入ってきやすいように開けっ放しの扉も逆に淋しさを増していた。

「閉めちゃおっかなぁ」

独り言は虚しく響いて膨大な本に飲み込まれていった。17時まであと10分。今さらこんな可哀想な図書室に誰か来るとは思えないので、少ししかない返却本を棚に戻して帰ることに決めた。

「もう、終わりですか?」

今のははっきりと聞こえた。少し低くて凛とした声。振り向けば先週借りた本を手にした河合くん。

「あ、誰も来ないと思ったから…」

かたん。残りの一冊を棚に戻す。この前のこと聞いてみたいけど、何て聞けばいいんだろう。そもそもそんな大したことじゃなかったかもしれない。それに殆ど喋ったことだってないんだから、わざわざ聞き返すこともないのかも。

「えっと、それ、読み終わったんなら戻すよ」

とりあえず返しに来たのであろう本を受け取ろうとしたけれど、分厚い本は床に落とされ差し出した私の手首はキツく掴まれる。そのままゆっくりと背の高い本棚に追いやられて、目の前には河合くんの端正な顔。遠くに見える窓から差し込む夕陽が彼の真っ黒な髪を茶色に変える。

「はぐらかさないで下さい」

真っ直ぐ向けられたその視線は逃げることを許さない。しんとした図書室は心臓の音をやけに大きくさせた。河合くんにも、聞こえるんじゃないかっていうくらいに。

「なんのことかな…」
「先週の答えを知りたいんです」
「あ、あれね、実はちゃんと聞き取れなくて」
「嘘つき」

ぐっ、と目が大きくなったのが自分でも分かる。そう本当は、殆ど聞き取れていたんだ。でも信じられなくって、狡い私は何も言えなかった。だって、同じことを思っていたなんて考えるわけないじゃない。

「返事がないのは、肯定とみなしますよ」
「…いいと思う」

今度は河合くんが目を大きくしたけど直ぐに戻した。それから薄く笑って手首を掴んでいたその指は今度は私の湿り気を帯びた手を絡め取る。17時のチャイムが遠くに聞こえる。

「それならこれから僕がすることについては、どう思いますか?」

近づいてくる唇に思いを馳せれば、伝わるのだろうか。


120622
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