■雨


男は傘を差して、その公園に立っていた。どこかの家から聞こえて来る天気予報。雨が地上に降り注ぐ。
傘を差している男を、濡れ鼠の少年は見上げていた。ぬかるむ地面に浮かぶ二つの影。男の視線はぼとりと足下に落っこちている。少年は問い掛けた。

「ハロー。こわいものはいってしまったよ、どうして傘を差しているの」

男は応えた。声は僅かに震えていた。

「嘘を吐くな。ずっと、雨ばかりなんだ」

雨が降ってくる。ざあざあと降ってくる。雨粒が傘を叩く音がする。少年は大きな薄茶の瞳で空を見た。そうして、再び問い掛けた。

「ハローハロー。きこえていますか。こちらは晴れなんだ。そっちはどうですか」

男は鬱陶しそうに少年を見下げた。乾燥してひび割れた唇が、重たい声を吐き出した。

「こちらもそちらもないだろう。どちらもあちらも雨だろう」

地面を雨粒が跳ねる。水溜まりに反射して映る空は隆々とした雨雲に覆われていた。光を一切通さない、仄暗さ。そこから降り注ぐ雨は、しとしと、よりも、ざあざあ、だ。

「最近は、雨だとおもうひとが多いみたい。ねえねえ、本当にそうかな。ねえねえ、君は忘れてるだけじゃないかな」

男は不満げに顔を歪めると、ちがう、と怒鳴った。肩も、髪も、雨に濡れているのに、彼は晴れていると頑なに宣う。黒髪から雫が垂れた。透明な瞳が、口を開く不幸な男の姿を映した。

「見ろよ!見たら分かるだろ!お前はあたまがおかしいのか!雨が降っているじゃないか、上を見てみろよ!だって、雨が───」

雨が、降っているはずなのに。


彼は突如として黙り込む。その静寂の中で、少年が上を指差した。雨の音が飽和している。誘われるように、男は視線を徐々に上げていく。力をなくした掌から、風に攫われて、傘が飛び去った。けれど落ちてくる筈の雨粒は、男の頬を濡らさなくッて。

青だった。眩しい程の青空が、そこに在った。男は腕をだらりと弛緩させる。傷んだ黒髪の毛先を生温い風が揺らした。ああ、と声が漏れる。蝉時雨が地面を濡らす。ざあざあ、と鼓膜を揺らす。

勘違いしていたのは、いつからだろう。この世界が雨だと思っていたのは、いつからだっただろう。こんなにも生命が五月蝿く雄叫びをあげて、地上に落ちてくるのに。こんなにも美しい青空が、眼前に存在していたというのに。

「ハローハロー。きこえていますか。きこえていますか。もう一度きくよ」

少年の、鈴のような声が聞こえた。男が視線を戻すと、少年は忽然と姿を消していた。地上に反射した日差しが眼に突き刺さる。それでも声だけは、脳を揺らした。

「こちらは晴れなんだ。そっちはどうですか」

暑さが肌を覆う。男は汗を拭うと、公園の隅に転がる己の傘を一瞥した。薄茶の瞳が僅かに細められる。革靴がぬかるむ地面に沈み込む。

「そうだな。傘は、必要なさそうだ」

水溜まりに一人映った少年の、口元に笑みが浮かんだ。

■完


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