■机に花瓶


男は鼻歌を歌いながら、花瓶に花を生けていた。オンシジウムの小さな黄色い花。見ようによっては、女性のドレスのような愛らしさ。
全ての作業を終え、花瓶を持って教室へ向かう。彼自身が担当している高等学校の三学年の教室だ。

彼、藤田は人気の高い国語教師だ。癖の強い髪、銀縁の眼鏡。人懐っこい笑顔と気さくな性格、巧みな話術が生徒を惹きつけるのだろう。多少熱血漢なところはあるものの、それも生徒を想ってのこと、と親達からの信頼も厚い。
だからこそ、彼が脳天気に鼻歌を歌いながら花瓶を持って廊下を歩いていても、皆は「また脳天気教師が何かをやってるな」としか思わないのだ。

教室に入り、とある机を目指す。その机の持ち主は所謂、いじめられっ子というやつだった。
綾野 啓太。真っ黒い髪を耳が隠れる程度に伸ばしていて、年中、ハイネックの服をワイシャツの下に着ている青年だ。神経質そうな顔立ちに痩躯。いつも独りで読書をしており、頭は良いが、一番にはなれない。
いじめられるキッカケが何だったのか、藤田が知る由もない。子供らしく、名字が女のようだから、という些細なものかもしれない。綾野が身売りのようなことをしているから、という噂に関係している事柄かもしれない。憶測は当たらないものであるし、当てようとも思わないが。

あの眼が、嫌いだった。藤田は花瓶を抱えたままに乾いた視線を机上に落とす。青年の何もかも映さない、それでいて凛と輝く瞳が嫌いだった。独りでいても、完成している大人びた姿が苦手だった。少なくとも、酷く汚したいと願う位には。

花瓶を彼の机の真中に置く。死した者への弔いの行為。教師としてあるまじきことだと、彼は気付けない。
冷たい指先が生けられた花の花びらを撫でる。つるりとしたシルクのような手触り。何となしに苛立って、それを毟り取る。それでも、掌の上に乗った花びらは美しさを濁さなかった。



無意味に沸き上がってきた怒りの感情に従って、桜の花びらを握り潰す。既に木々は青々とした葉を付け始めている。自分の担当するクラスにも慣れてきて、余裕さえ出てきたこの頃。さようなら、と元気良く挨拶をする数人の生徒に生返事をして、藤田は校舎を見上げた。
開け放たれた四階の窓。そこから、彼の横顔が見えた。また読書でもしているのだろう、俯いている為に前へ流れた横髪が顔の殆どを隠している。晒された首筋は、不健康なまでに青白く細い。

藤田はこの生徒が嫌いだった。笑顔を繕って、生徒の前で態とおどける彼の姿を見透かすように見つめる眼。澄ました顔で、斜に構えて。子供らしくない嗤い方、生意気な態度。
虐められるのも当然だろう、と思う。藤田が学生ならば、率先して彼を虐めることも想像に容易い。藤田にとって彼は一番、嫌悪に値する人間だった。
気に入られようと努力もしない。馬鹿をして周囲を人間で固めないと不安な藤田とは違い、独りを恐れない。どれだけ格好良くても、頭が良くても、スポーツができても、感じさせられる劣等感。そして、それも一方通行的な感情でしかない。ああ、憎らしい──と。

微かな音がして、意識が現実に引き戻される。気付けば、綾野は窓ガラスに押し付けられていた。細い躯の軋む音がここまで聞こえて来そうだ。
相手の顔は藤田の位置からは見えない。クラスメートだろうか。彼を押さえつける腕は、綾野の折れそうな腕とは違う逞しいもので。ガラス越しの華奢な背中を、藤田は何もせずに眺めていた。



可哀想な程、小さい背中。近付いて肩に手を掛ければ、彼は大袈裟な程に震えた。振り向いた瞳に浮かんだ一瞬の恐怖に、藤田は形容出来ない興奮を覚える。

「どうしたの」

さも心配しているかのように問い掛ければ、血の滲む唇を動かして、何でもないと強がった。
白々しいな、と自分でも思う。藤田は虐めの現場を目撃したが、黙認したのだ。扉の陰から見たのは、蹴られる彼の身体と、苦痛によって歪んだ顔。綾野を囲う口たちは狂ったように笑って、罵倒を吐き出していた。

漸く暴行が終わった頃、藤田は偶然を装って廊下を歩む彼の背中に声を掛けた。優しい笑顔を貼り付けて、顔を覗き込む。

「怪我してるじゃないか」

そ、と腫れた頬に手を伸ばせば、綾野はそれを反射的に叩き落とした。

「な、何でもない」

親切で心優しい教師を装って、藤田は困った風に眉を寄せる。絞り出すように声を出した彼の、傷付いた表情に。

「触るな」

仄暗い感情の影が、瞳の中を横切った。



眼前を慌てて横切って行った男子生徒達の影を一瞥した後、視線を裏庭へ向けた。虐めるにはありきたり過ぎてつまらない場所。そこに落ちる汚らしい雑巾、みたいな彼。べとりと床に落ちた視線が絶望に似ていて、藤田は唇を歪ませた。

教師というものは難しい。生徒を思って虐めを止めようと躍起になればなるほど、虐めは加速する。口出ししようものなら、それを根拠にいじめっ子達は不満と苛立ちを標的へと向ける。そして、皆がそれを知っている。被害者も加害者も、それを知って口を噤む。
否、加害者には虐めているという感覚すらないのだろう。被害者の方も、決して自分が虐められているとは思わない。イジメではなく、嫌われているだけだと。
クラスという小さく狭い社会のルール。大人には到底理解出来ない、若者間で共有される暗黙の掟。イジメ問題を大人たちがテレビで取り上げる度に、子供たちは溜め息を零す。大人の世界にも、どうせイジメはあるのでしょう、と。
現代では、イジメは見えにくく、繊細で分かりずらい。イジメは進化している。その点で言えば、綾野へのイジメは珍しく露骨なものだった。
メアドを知らぬ間に変えられるでもなく、自分以外の友人たちが全員で遊びに行くわけでもない。話した後に数人で顔を見合わせて、シケさせるわけでもない。
どちらの痛みが強いなんて、藤田には分からないが。言えることは唯一、いじめっ子が人を虐める理由だけは昔も今も大差ないということだ。
「綾野、どうしたの」

どろりとした瞳が、藤田を映し出した。それでも彼は体を地面に沈めたままに、言葉を発した。

「何も」

乱れた衣服から覗く赤色の痣。青紫色になる前の、内出血。

「泣かないのかい」

見下ろして、言う。小さな体は塵のように地面に打ち捨てられていた。同情と憐れみを顔に浮かべれば、綾野は屈辱に唇を噛み締めた。

「泣く必要がない」

強いな、と目を見張る。無意識下で、乾いた言葉が喉をつついた。

「卑屈で汚いあやのちゃん」

ひくりと肩が揺らされ、何で、と目が語る。少なからず信用されていたようで、思わず藤田は豪快に笑ってしまった。ざまあみろ、と心が呟いた。でも嬉しかった、と誰かが恥じた。
しゃがみ込み、頭の上に手を乗せる。

「って、言われたのならさ、俺の方が汚いさ。なんてったってトイレの後に手を洗ってないからね!」

そう言った瞬間、胡乱な眼差しを向けられる。けれど、頭に乗せた手を叩き落とされることはなかった。彼の言葉が冗談であることを感覚的に分かっていたのだろう。
風が吹いて彼の髪の毛が靡いた。露わになった頬に、少しだけ安堵が浮かぶ。

「強くなればいい」

鈍らない眼が、羨ましかった。到底なれないから嫉妬した。それでも、認めてしまうのは怖いから、気付かないふりをする。
だから、思った。願うように想った。

「まわりの正しいオトナたちより、もっと大人になればいい。死んだふりをして、苦しい時間を生きのびてみせて」

消えればいい、と。



嫌悪を唇に乗せて罵声を吐き出した。感情が次々と波の如く押し寄せる。机の上に置いた花瓶が、藤田の醜い表情を映し出す。
机の横に掛けられたままの学校指定の鞄を見ると、未だ綾野は校内にいるらしかった。イジメられているであろうことは、簡単に予想がつく。

「消えればいいのに、お前」

お前、が誰なのか。分からなくって、嘔気がした。花弁が口を開いて、唾を散らしながら嗤う。死ね、鬱陶しい、気持ち悪い──いつか自分が口にした言葉の数々。
手をズボンのジッパーに掛けて、自らの性器を取り出す。堪らなく興奮した。熱い吐息を零す。マスターベーション。なんて、背徳感。

救いなんていらなかった。どうしたって、救いなんてないから。嫌いなものは嫌いなのだ。穢らわしいものは、変わらずに貶される。絶望して欲しかった。味方なんて、誰一人として居ない。

本当に?

「うるさい!」

汗が床に落ちる。快感が背筋を駆け抜けて、精液が彼の机を汚した。力が抜けて、藤田は膝から崩れ落ちた。跪くようにして汚れた机に頬を寄せる。
そのとき。ドアの開く音がした。惚けた顔で其方を見やれば、呆然とした綾野が立っていた。絶望に瞳を染めて、立ち尽くす青年の姿に。

「おかえり、あやの」

笑おうとして、失敗した。



■完


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