■魚の話
経験したことはないだろうか。風呂の湯に浸からせたタオルで遊んだときの高揚感を。服を着たまま水面に飛び込む瞬間の開放感を。
水中のものは無条件に神秘的である。浮かんでいるのは美しくない。水の中だけでこそ、神秘的なのである。
開け放しの曇りガラスのドア。タイル張りの冷たく白い床。風呂場の鏡に映った女の背中は、ただひたすらに静かだった。
「この世界がかなしいなら、はやく亡くしてしまえばいいのに」
女の目は浴槽の中に落とされている。浴槽の中の、生温い湯に浸かった青白い顔の男の上に落とされている。
浴槽の外に放り出された彼の腕。手首に走る傷から、血が流れていた。節榑立った白い指先に粘着質な赤が線を描く。血色の悪い爪先から滴り落ちたそれは、水と混じって、滲んで、不思議な斑模様を作っている。
「どうして一歩を踏み出せないの」
その腕を、水中に浸けるだけよ。
彼女はお気に入りのスキニーが濡れることも厭わずに、浴槽の中で震える彼の体に跨がった。カッターシャツから透けて見える彼の肌に、僅かに興奮する。弱って怯えて泣きわめく彼は憎たらしくて、なによりもかわいい。
女は男の首に手を添えて、下へ押した。無抵抗な彼は、勢いよく水の中へ沈み込む。いきなりのことに、彼は驚いて息を吐き出した。泡沫が透明の中に吐き出される。美しい黒髪が、青の中で揺れる。
興奮した。男は咄嗟に女の腕を掴んだ。爪が、腕に食い込んでくる。
興奮した。たまらなかった。水の中の彼は、矢張り神秘的だった。
抵抗が徐々に弱くなる。波も泡も収まって、鮮明に彼が見えてくる。暗く澱んだ瞳。すらりと通った鼻筋。漂う黒髪、Tシャツから透けて見える鎖骨。透明の向こう側にある青紫色の唇。そこから覗く、赤い舌。
女は自ら、生温い湯船の中に体を沈めた。ざぶん、と飛沫が上がる。そうして、貪るように男の唇に噛みついた。
興奮した。彼には私しかいないのだと、錯覚できたから。
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