■盲目の少年
「南極では息が白くならないんだ」
少年は言った。冬の極寒の日のことである。路の水溜まりは凍りつき、雪が天使の羽のように舞い落ちる、そんな夕刻。太陽は既に地平線の裏側へ沈み込もうとしていた。
「空気が綺麗だからだって。塵も埃も舞っていない。ガスや排水溝の汚臭だってしない、素晴らしく完成された世界」
白い息が現れては、掻き消されていく。女は吐き出される息の如く消え去ってしまいそうな、儚げな少年の背中にそっと手を添えた。ダウンジャケットを着ていても分かる、細身の彼の身体。
彼の表情は見えない。寂寥に濡れた背中だけが、女の方を向いていた。雪はしんしんと降り続いている。冷え切った指先では、現実の感覚さえ思い出せなかった。
「ここもそうなればいい。だめなのかな」
少年は問う。その無知で無垢な言葉に、女は嫉妬にも似た感情を抱いた。
「だめよ」
水溜まりは凍っても、世界を映してはくれないように。濁った眼は光を閉ざすように。ここが南極でも、オーロラは見えないように。
だって、あなたはもう───。
けれど、意地悪に口を開こうとして、止める。喉に貼り付いた言葉が剥がれ落ちたけれど、声にはならなかった。ただ代わりに、言い訳のように彼女は微笑んだ。
「きっと、息はし辛いわよ」
(きれいな世界を、きみは見れないでしょう)
■完
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