中編 | ナノ


▼ 第2話‐05

酷く疲れ切った顔の私が、私を恨めしそうに見つめている。

『あんたってホンット馬鹿だよな』
『こんな家めちゃくちゃにしてやる』
『何も知らねぇくせに、善人ぶってんじゃねーよ!!』

彼の言葉が何度も何度も頭の中で響いて胸を締め付ける。

「…ッ…」

鏡の中の自分から目をそらして、私は逃げるようにして洗面所をあとにした。


リビングでは花野さんが落ち着きなくオロオロとあっちに行ったりこっちに行ったりしていた。

手には体温計やら氷枕やら風邪薬やら風邪対策のものがいっぱいに抱えられている。

「あ…っ」

私とパタリと目が合うと、花野さんは気まずそうにしながらこちらに近づいてきた。

「これ…部屋に持っていって大丈夫? …自分で持っていく…?」

「……」

「何か飲みたいものとかがあったら何でも言ってねっ? すぐ買ってくるから…」

「……」


…これが偽りだっていい。

今の私は、与えられる優しさに何も考えないで寄りかかっていたかった。


「…あったかい牛乳が飲みたいな」

そう言うと、花野さんは「今作るねっ!」と大量の風邪グッズを抱えたまま慌ててキッチンに駆け込んで行った。


──コトン

テーブルに置かれたマグカップから、蜂蜜とミルクの溶け合った甘い湯気がふわりと立ち込める。

「ゆっくり休んでね」

遠慮がちな微笑みを浮かべて、花野さんはキッチンに戻っていった。

そっとカップに口を付けて一口飲み込む。

途端に口の中いっぱいに柔らかい甘味が広がって、溶かされるように体の力が抜けていく。


夕飯の支度をしているんだろうか。
トントントン、とキッチンから包丁の音が聞こえてくる。

そのリズムと牛乳の甘さが心地よくて、このまま眠ってしまいたくなる。

一時の平穏。偽りの幸せ。

…でも、もうすぐ私が全てを壊してしまうんだ。


私はキッチンに目を向ける。

「…花野さん」

「…んっ? どうしたの?」

一言発すると、花野さんはすぐに私のところに駆け寄ってきた。

「聞きたいことがあるの」

「…なぁに?」

もう最後だと吹っ切れてしまうと、彼女と真っ向から向き合う覚悟が湧いてきた。

何もかも終わってしまう前に、はっきりと真実を確かめたい。


「…花野さんは…宗太くんと、仲良かった…?」

「……」

少し遠まわしな質問に、花野さんはふと私から視線をそらして俯いた。

「…仲は…良くなかったのかもしれないわね…」

寂しそうに笑いながら、花野さんは静かにそう言った。

まさか正直に「仲が良くなかった」って答えられるなんて…。

予想外のことに動揺していると、花野さんが小さなため息をついて私の隣りに座った。

「少しだけ、話しをしてもいい?」

「う、うん…」

「…もしかして…宗太から何か聞いた?」

「えっ…?あっ、えっと…っ」

「最低な母親だって言ってたでしょ?」

「……っ」

なんて返したらいいのかわからず言葉を詰まらせていると、花野さんは笑顔に一層寂しさを深めてポツリポツリと語り始めた。

「宗太の言う通りよ。私は家事もろくにできない母親失格の最低な女。…柚希ちゃんが家に遊びに来てくれたときに出してたご飯はいつもこっそりレシピ本見ながら作ってたんだから」

「えっ!そうだったの…っ?」

「働いていた私の代わりに家事は宗太がやっていてくれたの。全部自分から、文句も何一つ言わないで…」

「………」

…彼の話しでは、虐待されるから嫌々やっていたって…。

花野さんのこの話は嘘…?


「物心ついたときから、宗太は私に気を遣ってできる限りのことを何から何まで手伝ってくれてたの。

私が体調を崩したときは寝ないで看病してくれたのに、自分が風邪をひいたときは無理していつも通りに振る舞ってた。…わがままなんて一度も言われたことがない」


花野さんの瞳にたまっていた涙がポタリと膝に落ちる。

…これも、演技なの…?

そう気構えても私の心はグラグラと不安定に揺れ動いていた。


「仕事のことで落ち込んでるといつも励ましてくれた。『俺がずっと守ってやるから』って…。私なんかにはもったいないくらい本当に優しくて最高の息子よ、宗太は。

けど私は…仕事ばかりで宗太に全然構ってあげられなかった。無理ばっかりさせて、一度も母親らしいことをしてあげられなかった…っ」

グスッと鼻をすすって花野さんはそばにあったティッシュ箱を手に取った。

…彼の言っていたことと内容が全然違う。

どっちの話しが本当なの…?

疑惑が渦巻く中、次から次へと涙が溢れる目をティッシュで押さえながら花野さんは再び話しを始めた。

「でも、私に彼氏がいるって知ってから宗太は急に私に対してよそよそしくなったの。…言葉にはしないけれど、すごく怒っているんだと思う。

さんざん迷惑をかけておいて外で彼氏を作って好き勝手してるんだもの。当然よね」

頭の中で彼の今までの態度や花野さんの話がグルグルと絡まっていく。

心の底から離婚を熱望していた彼。

お父さんと花野さんを見つめていたあの負の感情全てが詰まったような瞳。

母親想いの優しい優しい息子。

彼氏の存在を知って急変した態度。


…もしかして、

もしかして…彼…宗太くんは、花野さんのことを……


「私だけいい思いをするなんておこがましいって、本当は柚希ちゃんのお父さんとは別れようと思っていたの。…でもね、柚希ちゃんに会って考えが変わったの」

「えっ…?」

「こんなに優しくて温かくて真っ直ぐな柚希ちゃんなら、私が与えられなかったもの全てを宗太に与えてくれるかもしれない。ずっと夢見ていた幸せな家庭にきっとなるって思ったの。

…でも、こんな勝手で浅はかなことを考えたせいで、結局柚希ちゃんにも宗太にも嫌な思いをさせてしまって…本当にごめんなさい…」

「そんなことないよっ…!」

私は花野さんの手を取ってギュッと握りしめた。

…もっと早くにこうしてちゃんと向き合えば良かった。

恐怖心を植え付けて花野さんと接触させないようにする彼の策に私はなんの疑いもなくはまってしまっていたんだ。

人の感情に流されやすい馬鹿女って彼はまた私を笑うだろうか。

でも私は花野さんの話を信じる。

思い返してみれば彼の言動はどれも、欲しいものを手に入れたくてダダをこねてるただの子供みたいだ。

…もう、何も怖くなんかない。


「…お父さんを選んでくれてありがとう。花野さんと一緒になってから、お父さん毎日すごく幸せそうだもん。

私は全然嫌な思いなんかしてない。花野さんが私のお母さんになってくれて、本当に良かった」

「……っ」

ありがとう、と小さく震えた声と共にふわりと抱き寄せられる。

柔らかくて温かいお母さんの体温。

今までずっと張り詰めていた緊張が一気に解けて、心を満たす安堵感に涙がこぼれ落ちた。

「宗太くんから聞いた話しを全部鵜呑みにして、お母さんが凄く悪い人だとずっと思い込んでた…ごめんなさい。ちゃんと話しが聞けて良かった」

もうメソメソなんかしてられない。

私は涙を拭ってお母さんを真っ直ぐに見詰めた。

「宗太くんはお母さんのこと嫌いになってなんかないよ。…私、彼と今みたいにちゃんと向き合って話しをしてみる」

私なんかに彼の憎しみや悲しみを埋めることはできない。

…でもだからって、お父さんとお母さんの仲を無理やり引き裂くなんて許せない。

私はもう彼の強情には屈しない。

それだけはハッキリと伝えようと、私は気を奮い立たせた。


外は一段と濃くなった雨雲に包まれていた。

きっともうすぐ激しい夕立がくるだろう。



第2話‐終



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