熱の条件 | ナノ






恵桜介の文字すらない。
ほかの生徒は住所やら保護者の情報やら緊急連絡先やら諸々の基本情報から成績や学校活動のことまでちゃんと記されていたというのに…
それはつまり、ハックされても調べられないように、桜介だけが"紙のデータ"で保管されているということだろう。
それほどの秘密が彼にはある。

そして、その桜介に親しく接する三島アキラ…

『はあ、頭痛くなってきた』

高月は夏の日差しに照らされた額をハンカチで拭うと、病院内へと歩みを進める。
これからどうするかなんて特に決めてはいなかった。ただ、F市から出て気分転換も兼ねて病院を見てみたかっただけだ。
院内の中庭に行くと、看護師と一緒にのんびりと散歩をしたり、リハビリなのだろうか、絵を描いている老人がいたりと、穏やかな空気が流れている。
青々とした瑞々しい芝生に、たくましい木々や丁寧に植えられたパンジーの花などがあり、公園のように整備されて美しい。

『暑いな…』

高月は持っていたポカリを飲むと、木陰になっているベンチへと腰を下ろした。タエの病室は304号室だった。そちらも少し見てみるかと考えながら、ぼんやりと老人達を見渡す。
この中にタエがいて、アキラが毎日のようにタエの見舞いに来ていたのだ。派手なビジュアルから、徐々に今のアキラへと変わっていく様子を覚えている看護師が何名かいたらしい。
そりゃイケメン高校生なんて来たら話題になるだろう。

アキラとは種類が違うが、自分もそこそこのイケメンだから覚えられたりするのかな、なんてバカな事を考えていると、すぐ隣に老婆が腰を掛けてきた。
ギョッとして少し位置をずらして座り直すが、老婆は気にもせずニコニコとしている。

「暑いねぇ」
「……そ、そうですね」

見知らぬ人間に話しかけられるという環境で育っていない現代っ子の高月は、まさか自分が話しかけられているとは一瞬気付かなかった。長いまつ毛を瞬せながら、遠慮がちに言葉を返し下手くそな笑顔を作る。

「誰かのお見舞?」
「…はい、えっと……おばあちゃんの」
「そうなの。夏休み?」
「いや、まだです」

頭は真っ白でしわくちゃで小さい老婆は、高月を見ながら嬉しそうに笑んでいる。何がそんなに楽しいのか解らない。

「貴方、高校生なの?」
「あ、はい……三年生です」
「そう。うちの孫は一年生よ。ごめんなさいね、貴方みたいな感じの子で嬉しくって」
「はあ…」

意味が分からない。ボケているのだろうか?どうしよう、此処を離れようか。そう思案している間にも、老婆はペラペラと喋った。

「孫はね、人見知りだけど可愛いのよ。工作が得意でね、美術の大学に行きたいんですって。たまに作ったものを携帯で見せてくれるの。凄く上手よ」
「良かったですね…」
「高校のお友達も出来たみたいで、今度キャンプに行くんですって。男の子っていいわねぇ、やんちゃで。あ、でも女の子も可愛いわよねぇ」
「そ、ですね…」
「最近の子って、都会的な子ばかりだからね、お話するとちょっとビックリされちゃうの。うちの孫もそうよ、病院で仲良くなった人が孫に話しかけるとオロオロしてるわ。ふふふ、今はそれが普通なのね」
「……」

何を言っているのだろうか。孫の自慢か?何だ?
この老婆の時代なら、大人が子供に話し掛けたり挨拶をしても不自然では無かったのだろうが、今の時代はそれは通らない。
男が小学生におはようと声をかけただけで事案が発生するし、知らない人間とのコミュニケーションなんて取ろうと思わないのが普通だ。
そりゃあ貴女の孫が見知らぬ老人に話しかけられたらオロオロするだろう。

何を言いたいのか分からず、やはりボケているのだろうかと訝しげに思いながら、高月は「はあ」とか「まあ」とか曖昧な返事をする。

「ふふ、それでいいのよ。まだ子供だもの、大人みたいに器用にされると可愛くないわよぉ。変に大人びた子が居てねぇ、あの子は嫌な感じだったの」
「そうですか…」
「怖かったわよぉ。自分のおばあちゃんをいじめてるのに、私や看護婦さんにはとても感じがいいの。全然違うのよぉ」
「へえ…」

妄想癖?認知症?よく分からないが、この温厚そうな老婆の話は飛び飛びで意味不明だ。
ああどうしよう、看護師さんが気付いて助けに来てくれないかな。

「器用ないい子ってそれもそれで可愛いけど、やっぱり不器用でぎこちない子が子供らしくて可愛いわよねぇ。貴方、何処から来たの?東京の人?」
「え…まあ」
「この病院は東京から近いから来やすいわね。スカイツリーには登ったかしら?」
「…そりゃあ…一回だけですけど」