熱の条件 | ナノ







靴裏に踏まれて簡単に死んでしまう蟻のように、桜介は鷹臣に好きなようにされそのまま気を失った。

***

朝になり、我に戻った鷹臣がまずしたことは、桜介を病院へ連れて行ったことだ。
昨夜、鷹臣に捕まり転倒して打った右目上の額が、赤紫色に腫れていた。出血はしていないものの、大きいコブが出来ているし、触るとビックリするくらい痛い。それに見た目がグロテスクだったので、眠りから目覚めて桜介を見た鷹臣は、絶句したように息を大きく吸って顔を真っ青にさせていた。
そんな顔をした鷹臣なんて初めて見たものだから、病院に行くと急いで支度をする彼に、素直に従ってしまった。このまま帰らせろと何故か言えなかった。

怪我は見た目に反して大したことはなく、脳にも骨にも異常はなし。一応眼球も調べたがそちらも大丈夫だった。充分に冷やされて、あとは痣を隠すように湿布を貼られて終わった。

本当は今日は映画を観に行くはずだったのだが、何処にも行かずにホテルの部屋へと戻っている。そして、ソファに座りテレビを眺めている桜介の腰に腕を回し、その細い膝に懺悔をするように鷹臣が自身の顔を埋めている。彼はソファには座らず、絨毯に座り込んでさっきからずっとこの体制だ。

「メグ、マジ悪かった…もうあんなことはしない。メグの大切な体に怪我なんかさせない。ごめん、ごめん…」
「はい、もういいですから。大したことないですよ、小さい頃も木登りの途中で落ちて頭切ったりしたので」
「やだ。もうそういうのは駄目だ」
「やだって…」

困るからと肩を押してもびくともせず、一向に退く気配はないようだ。そんな所に居られると足が痺れるし、髪が擽ったいし気持ち悪いと言っても、鷹臣は首を振るばかり。

「もう、ああいう事しなければいいだけじゃないですか」
「知らない。するかもしんねーし」
「自分のことでしょう?」
「やだ。マジで、嫌だよ。可愛くてキレーなメグなのに、俺は…何で、もう…」
「はあ…何でもいいので、離れて下さい」

彼はまるで子供だと思う。
こんなに大きくて力があって、大人っぽいスイートルームが似合うほどの色気やオーラがあるのに、こんなちっぽけで無力な自分に甘えるように駄々をこねて…

『ああそうだ、先輩は子供なんだ。ワガママで、自分勝手で、子供そのものだ』

どんなに老成していても、結局彼は桜介と居ると子供になってしまうのだろう。ずっとそうだったから、ずっと彼に振り回されてきたから。

液晶画面には、お笑いタレントが大袈裟に立ち上がってツッコミを入れたり熱い煮物を食べてひっくり返ったりしている。そのリアクションを見て笑う人々の声が虚しく室内に響いていて、桜介はより寂しさを感じた。

「先輩もテレビ見ましょう。僕の膝に顔を擦り付けても楽しくないですよ。それか、映画観に行きましょう」
「ダメだ!怪我してんのに、部屋から出すわけないだろ!」
「じゃあ……ああ、そのままで」

怪我をさせたのは何処のどいつだ。あ、怪我をさせたから過敏になっているのか。なんて思いながら、仕方が無いと腕を伸ばしてテーブルに置いていた本を読み始めた。

影渕志尚作「有限と砂上の咏」だ。これは母、佳代子が出演している映画の原作の小説で、本当は映画を観た後に読む予定だったのだが、予定が狂ってしまったので今読むことにする。
若い著者の本をあまり読むことがない桜介なので、現代的な文章がとてもライトに感じてスラスラと目が進んでいく。

言葉の引っ掛かりのない、素直な文が気持ちを落ち着かせてくれた。
内容は田舎の農園で働いている少女が、家の蔵で身を潜めている男を見つけ、その男と恋に落ちる。男は指名手配犯で追われる身であった。その男と少女は駆け落ちをし、海沿いの田舎町へと逃げてそこでひっそりと暮らすというものだ。
最後はどうなるのかはまだ分からないが、大体オチが想像できるなと桜介は思った。
悲恋モノの典型的な展開は、頭の中をごちゃごちゃにしないのでこういう時は有難い。因みに佳代子の役は、その指名手配犯を追う女刑事で、主人公の一人だ。

『逃避行かぁ、いいな。僕もアキラくんと何処かに行きたい…一日だけでいいから、どこか遠くに。先輩や学校のことを考えなくていいくらい。一瞬でいいから、少しだけでいいから、人目を気にせずに、アキラくんと一緒に過ごしたい…』

監視の目を気にせずに、アキラと思い切り遊べたら…と、想像すると、もしかしたら案外可能なのでは?といった希望が生まれた。
口煩い監視役だと思っていた嗣彦は、実はそうではないみたいだし、F市を抜けて大和生が来ないような場所でデートをしたら平気な気がする。
監視の目が緩いのなら、外泊だって大丈夫そうだ。

『あれ、もしかしていける?』

最悪なこの状況の中で、帰宅後の楽しみが増えた。アキラとデートが出来る!