熱の条件 | ナノ






二月十四日。

新宿−と言っても、何処か生臭く、怪しい男や派手な女、若者から親子連れ、ホームレスなどが犇めき合う、喧騒な街からは外れた場所。
汚いマンションと中華料理屋に、一つしかない無駄に大きなラブホテル。高架下の居酒屋、古くからある金物屋や八百屋がある商店街の一角。此処に、珈琲しか出さない珈琲専門のカフェがある。
店内は小さくて、三つのテーブル席と五つのカウンター席のみ。テーブル席は窓際に沿っていて、出窓にはレースのカーテンと、外国人が写ったモノクロの写真か飾られている。

カウンターの隅にはレトロな蓄音機が置かれているし、煤けたオイルランプが飾られている。カウンター内の食器棚には、マスター自慢のカップがこれでもかと並ぶ。種類はバラバラで、マスターの趣味で集められたもののようだ。
テーブルも椅子も、いい意味で言えば重厚感がある木彫りの物。悪く言えば、昭和っぽくて古臭い。
全体的に茶色い家具で統一されているし、照明も淡いオレンジで、高級感がある落ち着いた喫茶店を装っているが、場所が場所だからだろうか、いまいちぱっとせず、古臭く感じる。

カウンターではマスターである三十代の男が熱心にカップを磨いている。中々の男前で、気取って口髭なんかを生やしているが、おそらくそれを剃ったら童顔なのかもしれない。整髪剤で上げられている髪も、下ろしたらもう少し若く見えるだろう。店員はこの男のみだ。二月の平日なんて、彼一人で充分回せてしまうほど、店の中は閑散としている。
客は、カウンターに向かい合う形で設置されたテーブル席につき、耳に赤ペンを引っ掛け、競馬新聞を睨む老人の男のみ。
野球帽からチラチラとはみ出ている髪はどれも白くて弱々しく細い。顔周りにはシミとシワが目立ち、六十代と自称するが、もっと上に見える。着ているカーキ色のダウンが薄汚れており、袖口がほつれているのが分かる。相当年季が入っているのだろう。下前歯が一本無い老人は、口の中でもごもごと呟きながらカップを持ち上げ、茶を飲むように珈琲を啜った。

「なあ、市野美(いちのよし)さんよ」
「はい」

老人に呼ばれたマスター−市野美は落ち着いた声で返事をし、そちらを向く。

「この前はダメだったよ。アンタの名前を借りて、1・4賭けたけどな、負けちまったよぉ。やっぱ俺ァ人に頼ったら負けちまうンだなあ。前もそぉだったんだ。あっこの金物屋の倅にな、何色が好きか訊いてそれで決めたんだが、やっぱ負けた。今年はまだ勝ちがねえよ」
「そうですか、それは何だか申しわけないですね。次は当たることを願っております」
「まあまあ、アンタは悪くねえよ。俺が頼ったのが悪ィんだ」

この男はよく店に来て、こうして競馬予想をしている。市野美は競馬をしたことがないので分からないが、彼はいつも人の名前の中にある数字や、好きな数字、好きな色を聞いて賭ける馬を決めている、ということは分かる。
前回はマスターの名前が「いちのよし」だったので、一番と四番を選んだようだ。

そして不思議なことに、彼が「この前は負けた」と言った日は彼が店から出てから二時間は絶対に客が入らない。その後はまばらに来店はあるが、絶対に忙しくはならない。反対に「勝った」とか「大当たり」なんて喜んだ日には客足が絶えなくなるのだ。
だから市野美からしたら、出来る限りは当ててほしいのである。

でも今日は負けたと言われたので潔く諦めることにした。このジンクスの威力は物凄いのだ。諦めざるを得ない。
どうせ二時間誰も来ないのだ。表を気にせずに事務仕事でもしよう。

珈琲豆や粉の通販もしているので、そちらの仕事に切り替えようとカウンターの中でパソコンを開いて作業をする。通販の顧客がいるから、この喫茶店は成り立っているのかもしれない。コンスタントに注文が入るので、市野美は通販を始めて正解だなと実感した。
文章を打ち込んだり粉を出したり、店のチラシを引っ張り出したり、と事務作業を進めている内に、老人は「ごっそさん」と声をあげ立ち上がると、カウンターテーブルに珈琲代を置いて背を向けた。いつもポケットの中にそのまま小銭を入れているようで、十円だらけの細かい金がじゃらりとテーブルに広がる。
常に勘定キッチリで釣りは出ない。それは割と有り難い。

「ありがとうございました」と声をかけると、老人は片手を上げ「はいはい」と振る。ちゃりちゃりと小銭の音を立てさせながら、筒状に丸めた新聞を尻ポケットに突っ込み、店を出た。

−カラン

クラシカルなドアベルの音と同時に、外の冷気がすっと侵入する。外は随分と寒い。それはそうだ、今日はバレンタインデー。冬真っ盛りである。
彼女がいない身としては、寒くつまらない一日だ。そんな事を考えていると、老人のいつもは発せられない言葉が聞こえた。

「おっと、ごめんよ」
『え?』

おっと、ごめんよ。
そんな台詞が出るということは、出入り口で人とぶつかりそうになったということ。
人と?

市野美は驚いてカウンターから顔を出すと、そこにはすらりとした長身の青年が立っていたのだ。
青年は軽く老人に頭を下げて、店の中に入ってくる。
市野美は信じられないものを見た感覚になった。

だってこの老人は今日は「負けた」と言ったのだ。それなのに、客が来たのである。負けた日なのに。これから二時間は暇なはずなのに。今まさに、老人と入れ違いで青年が来店した。






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