心地よい椿事

「チュース!」

最近やっと春めいてきたと思えば、油断したわたしたちを嘲笑うかのようにまたふとした時に寒くなる。シーズン開幕も目前に迫ったそんな頃。気まぐれな寒さを吹き飛ばすような声で、ETUの小さなエースがクラブハウスに姿を見せた。

「世良くん今日も元気だねぇ」
「そっスか?名前さんこそ今日も笑顔が輝いてますよ!」

出会い頭に口説き文句だなんて、まるでドラマみたいなことを言うなあと思った。今まで彼にこんな言葉を言われたことがなかったから、嬉しいとか恥ずかしいとか思うよりも、世良くん可愛いなとか面白いなとか、口に出せば怒られてしまいそうなことを考えていた。

「やだな世良くん、どこで覚えてきたの?そんなこと」
「王子っス!」
「あは、やっぱり」

いかにもジーノが言いそうなことだ。この分だときっと椿くんあたりも吹き込まれているのかもしれないと思ったのだけれど。

「名前さんに言おうと思って教えてもらったんスよ!」
「…え?」

なんか王子ってサラッと女の子褒めるじゃないスかー、なんて。彼の言葉に動揺するわたしの気も知らず、ETU華の10番の私生活を得意気に喋り続ける彼。正直きらびやかなジーノの女性関係には興味があったけれど、それは時と場合によるらしい。今はゴシップネタよりも目の前の世良くんにどんな顔をしたら良いかということが知りたい。せいぜい生返事を返すくらいが精一杯のわたしにそれを教えてくれる救世主は現れやしなかったけれど。

「ちょっと名前さん聞いてんスかぁ?」
「き、聞いてるよちゃんと!ただ頭に入ってこないだけで…」

それは聞いてないって言うんスよ、と無邪気な顔でケラケラと笑う彼。

「世良くん…ジーノに似てきたね」
「ええ!?俺スケコマシじゃないのにー!」

顔色を変えずに人の心を乱すというところがジーノを思い起こさせるという意味だったのだけれど、世良くんは歯に衣着せない物言いでまた笑ってみせた。スケコマシだなんて、ジーノがいなくて本当に良かった。わたしはなんだかおかしくて、彼に釣られて口元が弛む。
すると突然世良くんはその人懐っこい笑みを引っ込めて、口許を引き結んだ真面目な表情になる。その変化にあれ、と思う間もなく代わりに世良くんの手が差し出された。そしてそのままずいっとその手が伸びてきて、わたしの手をきゅっと握る。世良くんはわたしをドキドキさせるのが本当に上手だ。

「俺が好きなのは一人だけっスから!」

そう言ったかと思えば歯を見せてまたえへへと笑った。
期待させることばかり言うのはつまりそういうことだって、思って良いかな。




END
:110304

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