ありふれている大切なこと(趙陸)





 今宵の月は煌々と光を発し、妖艶でとても美しく、頬を撫でる夜風も心地好い。月明かりと朧気に灯された灯籠に浮かぶ花弁は、優雅で、雪のように淡い純白の色を湛えている。
 其れが本日の酒の肴。
 初春に咲く、色鮮やかな草花に囲まれた煙亭の几には酒と料理が並べられ、対面して食する二つの影は趙雲と陸遜だ。

「たまには、こうして外で食べるのもいいだろう?」

 従容と柔らかく微笑む趙雲の問い掛けに、はい、と明瞭な声で答える陸遜。
 此の席を設けたのも、几に並べられた料理を作ったのも、全て趙雲だ。
 いつからか趙雲は陸遜の為に当たり前の様に料理を作る様になり、然し普段は槍を持ち戦場を駆ける武将故、大したもの作れる訳ではない。一番手の込んだもので鶏の味噌煮。後は彼の故郷で主食となっている小麦粉料理…今で言う、肉まんや拉麺と言ったもので、武人が戦場で食す保存食しか調理する事が出来ない。
 そして陸遜は流星の如く現れた呉の若き軍師。
 眼前に並ぶ料理が戦場で活躍する料理ならば、二人の会話も同じだった。

「なかなか…、異民族とは武力に置いては信頼出来るが、其の他は信用出来ない集団だ」

 とくとく…、と、銚子から耳杯に酒を注ぐ趙雲。
 酒を嗜んでいるのは専ら趙雲で、陸遜の耳杯に注がれた酒は殆ど減っていない。其れでも陸遜の頬は薄紅色に染まり、微酔い気分。心地好い酒の魅力に浸されながら、陸遜は趙雲の言葉に耳をそばだてた。

「彼等は利益の為に動く傾向が強いですからね。私達の場合は山越ですが…喉元を脅かされている思いで、殿も山越との応接に暇がありません」

 異民族は利益の為に動く。其れは居住、食料、馬…生活に必要不可欠なものであって、故に彼らは固執し、簡単に裏切る。政治能力に長けている孫権ですら異民族の鎮圧、討伐に何度も出兵した。呉で名のある将の殆どは其の戦に赴いた…其れくらいに。では何故孫権に然り諸葛亮に然り異民族を殲滅しないのか。結局、幾ら綺麗事を並べても、裏を返せばこう言う事なのだ。

「…異民族を味方に付けなければ此の乱世を勝ち抜く事は出来ない…。信頼出来なくとも、頭数にはなるのです」

 此の大陸の歴史の背後には必ず異民族が密接している。彼等の能力をどう生かし、どう排除するか…勝利を手にする為には絶対的に必要なもので、其れは趙雲もよく理解していた。
 が、理解しているからこそ、思わずにはいられない。

「…いつからだろうな。異民族は漢民族の下、と言う認識が芽生えたのは」

 ことり、と。
 耳杯を置く音が厭に重く、はっきりと耳に響く。其の音に導かれて陸遜が趙雲に視線を移すと、歯痒そうに微笑する趙雲がいて…陸遜は無意識に発した自分の言葉に酷く罪悪感を感じた。
 いつの時代からか、密林へ、砂漠へ、山々へと追いやられ、異民族と言う種類分けをされ、漢民族こそが中華を統べる正統な民族とし、中華の主導権を握った。手を取り合って共存していた自然の摂理が“如何にして利用するか”に変わってしまったのだ。其れは此の大陸や時代に限った事では無く、況してや誰のせいでもない。深く根付いた思想で、当たり前の事なのだ。

「…子龍殿」

 春一番の風が頬を撫で、ふわりふわりと風に舞う桜の花弁は、まるで雪のように淡く儚げで刹那的。―――美しい。そう賞翫する目も心も、今はこんなにも物悲しい。
 こんな話をするつもりは、互いに無かった。
 いつものように、今日は何があったのですか、実はこんな事があって、貴方はどう思いますか、桜、綺麗ですね。そんな他愛の無い話をするつもりだったのに。定められた涙を胸奥に隠すも此の身体に浸潤した歴史が、武官と文官であると言う立場が、忌々しく切なく視界を霞める。
 陸遜は小麦色に焼けた顔(かんばせ)に陰りを落としながらも、話を変えようと味噌煮を一口頬張った。味噌の独特の風味が口一杯に広がって、よく煮込まれた鶏肉は蕩けるように柔らかい。一言文句を言うならば少し水っぽいこと。然し、

「…此の煮付け、美味しいです」

 本当に美味しかった。
 平素は舌だけで味わい腹を満たしていたが、今は舌と心で本来の旨味を堪能出来る。故に此れは自然と零れた賛美で、然し其の賛美に返事は無かった。もしかしたら聞こえなかったのかも知れない、と、陸遜が顔を上げてみると…趙雲の面は喜色に滲み、口元はだらしなく緩みまくり、剰つ、双眼は潤んで今にも泣き出しそう。

「そうか…、そうか!」
「な、何も其処まで喜ぶ事でも…」
「そうか?そうだな…ふふ、ああ、伯言!此方も食べてみてくれないか?此れは私の故郷のものでな…」

 そう言って陸遜の皿にあれよ此れよとお手製の料理を乗せる趙雲の手は先と違って軽快で、有頂天で。
 陸遜はこんな簡単な言葉で此の人は喜ぶのかと呆気に取られ、反面、そこはかとなく面映ゆい気持ちに見舞われ、頭垂れてしまう。

「…」

 共に箸を持って話をする場は幾度とあり、然し自分は其れが出来なかった。
 他者を見下し、誣告して利用して、欺瞞に満ち溢れた乱世の世を如何にして残存するかに忙殺されて…否、当然と受け入れて触れさえしなかったのだ。だからと言って此れを当たり前として受け入れのはどうだろうか。自分の不遜で横柄な態度を役職や時代のせいにしたく無い。そう思って陸遜が顔を上げてみると…自分の皿や椀に馬鹿みたいに盛られた料理が双眼に飛び込んできた。

「…私を太らせるつもりですか」
「ふくよかな伯言も、柔らかくて良いかも知れない」

 其れでは今の私の身体は硬いと言う事ですか!と冗談混じりに声を荒げて言ってみるも、うむ、伯言は痩せすぎだ!と真顔で返されてしまって。暫し二人は対峙し、たっぷりと時間を置いた後に訪れたのは、呵呵大笑いする二人の笑い声。一頻り笑った後、陸遜は畏まった様に趙雲を見つめ、

「すごく…、すごく美味しいです」
「何だか背中がこそばゆいな」
「…子龍殿」

 明瞭とした声で呼ばれて、趙雲が陸遜に視線を定めると、陸遜ははにかんだ様に頬を薄紅色に染め、確りと自分を見つめている。

「…いつも、ありがとうございます」
「…何を、今更」

 照れ臭そうに感謝の意を示す陸遜の面には笑みが咲き乱れ、其れを受け止める趙雲は従容と微笑み、然し双眼は破顔したかの様に細められている。
 当たり前となってしまった行為と好意に、たった一言套語を添えるだけで、相手も自分もこんなにも満たされる。其れは蜜の様に甘く花の様に儚い時間。深淵に乱れ散る桜の様な一時の歓喜なのかも知れない。然し―――嗚呼、此の気持ちをいつまでも貴方の隣で散らして、咲かせたい。

 願わくは、私が死ぬ、其の日まで。



 幸せそうにそう願う燕が此の世を去ったのは、此れより何十年も後の、今日。

 麗らかな春の微風が心地好い、二月十四日の事だった。




















2010.3.21.終わり

1月30日〜3月21日までの拍手お礼文+陸遜追悼文です。
沢山の拍手、ありがとうございました。





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