連れ去る夏





 足掛かりとして漢中に向かうのは劉備、張飛、馬超達諸将。後に言う、下弁争奪戦で、此の戦は馬超配下の将、呉蘭に従う任キの無謀とも言える単独行動で、馬超と、そして固山を守る張飛を退却させる。時同じくして火蓋を切っていたのは、合肥での雪辱を晴らさんと孫権が曹操に挑んだ濡須口の戦いだった。結局此の戦いは孫権が毎年魏に年貢を納めると言う形で和睦が結ばれ、一時的な平和が訪れるのだが。
 陸遜が呉に帰還するのは、其の少し前。
 漢中に出立する蜀、激戦を繰り広げる魏と呉、季節的には夏だろうか。肌を撫でる初夏の風が心地好く、其れに乗った新緑の匂いが鼻を擽る。此れが蜀の地では無く呉の地であれば一層を増したのだが、蜀の地は湿度が高く少しじっとりとした暑さを持っていた。

「暑いですね…」

 蜀の地に慣れていない陸遜にとって、此の暑さは少し鬱陶しかった。額に浮き出る汗は流れる事無く珠となって点在し、其れを趙雲が手の甲で拭ってやる。すると陸遜は「ん、」と短く言葉を発して、有り難う御座いますと言う様に微笑んだ。趙雲も微笑んで応えるのだが、其の笑顔は何処か悄然としていた。
 陸遜に帰還命令が下された理由と言うのは、濡須口の戦いで曹操が四十万の兵を呼号して張遼と合流しようとしていると言う情報を得たからだ。対する孫権軍の兵力は僅か七万。赤壁の戦いに比べたら可愛い数字なのかも知れない。が、赤壁時の曹操軍の兵は実際は八十万。其の八十万とて結局は烏合の衆。曹操が連れ立って来た兵は二十万程度で、実質的な数字だけを見ると決して赤壁と引けを取らない戦なのだ。そう考えると―――――本当に今生の別れになるかも知れない。
 趙雲はト裡に泣悌して、そして漢中戦で先鋒隊に選抜されなかった事を感謝した。一将としては不遜で愚直な想いなのかも知れないが、どうしても此の双眼に、瞼に愛し子の姿を焼き付けておきたかった。そして“さようなら”と、最後の言葉を言いたかった。
 然し、言えない。
 陸遜から帰還と言う言葉を聞いてから、趙雲は四六時中、夢と希望と愛が詰まった未来を思い描いていた。然し其れはとても詮無い事で…賢しく無くとも魯鈍では無い。“何が一番か”では無く“何をすべきか“を趙雲は知っている。そして言葉に出来ない程此の胸に滲む想い出達が言う。
 其れが彼の幸福か、彼が望んだ自分か、そして彼が心許した男のする事か、と。
 暫し沈黙が二人の空間を支配する。
 陸遜の額に掻く汗は流れ、其れを拭った趙雲の手は既に乾いている。其処に吹く風は、趙雲の心情とは裏腹にとても爽やかで、本当に心地好かった。

「ねえ、子龍殿」

 其の沈黙を破ったのは陸遜だった。
 そよそよと吹く風が陸遜の栗色の髪を揺らし、遠くから聞こえる河のせせらぎが互いの耳に優しく響く。
 其の中で陸遜はぽつりと呟いた。

「さようなら、と…言っては貰えないでしょうか?」

 どす、と鈍い痛みが胸に突き刺さった。そして心臓を鷲掴みにされ、下へ、奈落の底へと引きずり落とされている様な感覚が総身を襲う。厭に冷たい汗が頬を伝い―――――其の言葉を望んだのは自分なのに。然し土壇場になった今でも、此れは夢で現では無いと、現実が漠然としていた。が、次の陸遜の言葉で、ぼんやりとしていた世界が、夢現の境を彷徨っていた意識が現に定着する。

「そして、また明日ね、と」

 なんて酷い言葉なのだろうか。明日なんて…、限り無く皆無に等しいのに。
 瞠目する趙雲の胸にあった鈍い痛みが、鋭い痛みとなって胸に突き刺さる。心がざわざわと騒擾する。拳を握り締め、瞳に集う熱を放たない様にと必死に瞬きを避けるが、其の姿は逆に弱々しい。少し突いただけで崩れてしまいそうな脆さを露呈している。
 揺らぐ視界、其の中に映る陸遜の姿も弱々しかった。
 既に双眼はしっとりと濡れそぼち、今にも滴が零れ落ちそうで…然し面には笑みが湛えられている。
 そう、此れが現実なのだ。
 幾ら頑是ない子供の様に地団駄を踏んでも、変える事の出来ない、現実。

「…さようなら、陸遜殿」
「…さようなら、趙雲、殿」

 意外と簡単に言えた言葉、返って来た別れの言葉。
 然し此の先の言葉は、至極言いにくい。

「…また、」

 もう、逢う事は無いのだろう。
 そう思うからこそ言いたく無い、言えない、言ってはいけない。だけど、

「明日…!」

 其の約束を望んだのは、彼。
 愛し子が望んだ最後の約束を、例え嘘でも交わして上げたい。
 愛しい人の未来の妨げになるかも知れない優しい嘘、其れは自分に最高の贈り物をくれた。
 今にも泣き出しそうな面に咲く優しく温かい、とびっきり笑顔。
 其の笑顔を聢りと眼に焼き付けて、同じ様に笑えたかどうかは分からないが、趙雲は微笑み返した。そして踵を返して去って行く陸遜の背中を何時までも見送って…馬に揺られる陸遜の身体が震えていた、そんな事が分かるくらい、何時までも、ずっと見据えて。
 そして趙雲の頬に一筋の涙が伝った。其の涙を初夏の風が優しく包み込み、連れ去って行く。
 笑えば笑う程惨めになって行く別れ、静かで呆気ない別れ。然し確実に音を立てて崩れて行く二人の関係。
 ―――――翌年、同じ季節。
 江陵に駐屯していた関羽がハン城に向けて北上したのだった。















2010.8.20.終わり

捏造ぱーりぃ\(^^)/
誰か私に文才を下さいお願いします切実に。
呉に帰るんなら舟か。失敗した。そしてそんなつもりは全く無かったのに気付いたらシドの『嘘』。好きなのに別れる人達は似たような事を思って似たような事を言って別れるんですね。





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