散った春





 其れは劉備達が漢中に出陣する随分と前の事だった。

「帰還、命令…?」
「はい」

 突き付けられた現実に脳が理解を示してくれず、復唱して確認をとる趙雲。
 反して陸遜は書面に走らす筆だけを忙しなく動かしながら淡々と返事を返す。

「それはまた…急だな…」
「そうでしょうか?」

 其の言葉のやり取りは現実を受け止めているのは陸遜で、夢を見ているのは趙雲だと現すものだった。
 確かに其れは趙雲の心にも存在していた未来で、然し流れ行く時間が余りにも甘く、幸福に満ちたものだったので、其れを忘却の海へと誘うには十分だった。
 急に引き戻された現実に困惑しながらも趙雲は至って冷静に窓際まで緩慢と足を歩ます。些か其れは語弊で、寧ろ其れは冷静と平然を固持する姿勢、悲威に満ちた心と面を隠す行為だった。

「…いつ、此処を発つんだ?」

 虚ろな瞳に外界を映すと、先程までの麗らかな陽光がまるで嘘の様に消え去り、薄暗とした浅葱色の空に絹の様に艶やかな桃の花弁がしとしとと舞っている。其の光景は自尊心と立場、意地が邪魔して、泣涕する事が出来ない自分の代わりに泣いてくれているのだと趙雲は思った。

「…夏が来る前には」

 ゆっくりと趙雲の傍に歩みより、彼の大きな手に自分の手を重ねる陸遜。
 趙雲は陸遜に一瞥をくれる事も出来ず…、今陸遜を見たら幼子の様に駄々を捏ねて泣いてしまう自信があったからだ。故に趙雲は自分の手と手を重ねる陸遜の瞳がしっとりと濡れている事に気付かなかった。

「……桃、綺麗ですね…」
「そう、だな…」

 季節は、春。
 劉備達が漢中を手中に納めるのは夏の季節。
 此の季節が過ぎれば劉備は漢中王を名乗り、趙雲は翊軍将軍に昇進、蜀が誇る虎の様に勇猛な五人の将、五虎大将の一人となる。そして漢中王となった劉備は遠く離れて暮らす義弟にこんな命令を下す。樊城を攻めよ、と。
 此の後の話は後世の人間がご存知の未来、此の二人の知らない未来が待っている。然し此れが今生の別れになると二人は直感でわかった。
 だからこそひらひらと風に舞う桃の花弁を二人で静かに望んだ。 ひらひらと風に舞う桃の花弁を背景に別れを偲んだ。
 ひらひらと風に舞う桃の花弁に、叶わない望みを願った。

 散るな、と。




















2009.7.24.終わり





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