関公の優しさ(羽平銀)
軍費が事欠く、と言われれば、やはり公からの贈り物を活用すれば良かったと、父の義に反する邪な考えが芽生えるのは、其れはまだまだ自分が未熟者の証拠だと、関平は頭を掻く次第だった。
然し今日と言う日だけは荊州城内の景気が誠に良い。
と、言っても、其れを実感出来たのは、関平が邸に帰宅した時だった。
伯父から贈られた成都の美酒、豚や馬の羹、河海老の刺身や見た事の無い果実等が並べられていて、軍神の息子にして父の輔翼を務める関平ですら、豪勢だと感じるものばかり。
自主休憩と言う言葉を知らぬ真面目で温厚を売りとしている関平は、朝から晩まで執務鍛練に励み、眼前に並べられた料理を見て、腹の虫が鳴かぬ訳が無い。
早く父上に来て欲しい、と思う反面、そこはかとなく面映ゆい気持ちにも見舞われ、懐に仕舞わせた包みに手を置いて溜め息をついてしまう。
「父上、父上は今日でお幾つになられたのですか?」
「歳など聞くで無い」
普段自分に向けられる鋭い口調は何処に行ったのか。緩みまくった語気で答える先にいるのは、関平の末妹、関銀屏だ。
関羽は此の関三小姐を目に入れても痛くない程可愛がり、其れこそ籠の鳥状態。口調のみならず、平素の聡明な鳳眼の威光は全く感じられず。其処は此の軍神も人の子、人の親と言う事か。
そんな親馬鹿な父の登場に、関平は威義を正して平伏せんばかりに頭を下げる。
「父上、此度はおめでとうございます」
「…まあ、そう畏まらんでもよかろうに」
此の息子のいけないところはこう言うところだと、関羽は自慢の髭を撫でながら思った。
武人としての及第点は達してはいるが、人として息の詰まる人生を歩んでいる。些か崩す、と言う事を覚えればいいものを。特に今日と言う目出度い日は無礼講であろうに。
「長兄、おかえりなさいまし!」
関羽にしがみ付いていた銀屏が、面に花を咲かせて関平に抱き付いて来た。
「本日もご苦労様です」
銀屏の天真爛漫な笑顔とは裏腹に、心中穏やかでないのは関平だ。
ちらりと関羽に視線を移してみれば、先の穏やかな眼光は其処には無く、虎も縮こまる鋭い眼光と眉を揚ぐ面で自分を睥睨している。
下の弟達と違って、銀屏が関平に懐くのを、関羽は快く思っていない。
此の生真面目な息子に限ってそんな間違いは無いであろうが、何せ血の繋がりが無いのだ。娘を持つ親として、心配で心配で堪らない。
そんな心情があって可愛い娘がいる手前、韜晦している関羽の姿は、関平には誠恐ろしく映り、此の後父の小言を延々と聞かされると思うと、先程の空腹感が嘘の様に消え失せた。
其れなのに、
「まあ、長兄。此れは一体何で御座いますか?」
「こら、銀屏!」
銀屏が関平の胸の膨らみに気付き、隠していた包みを取り出したのだ。
関平とて、妹が可愛くて可愛くて仕方がない。
然し此の妹、少々お転婆なところがあり、針に糸を通す事を嫌い、末弟を打ち負かす程の豪勇で、女性の嫋やかさを感じられない。だからこそ無遠慮に男の胸元に手を入れると言う、はしたない振る舞いをするのだが……
然し父の前でだけは、今回だけは止めて欲しい行為であった。
「父上への贈り物ですか?」
そう無邪気に問われて、先程の面映ゆい気持ちが沸々と関平の胸に蘇って来た。
そして関羽も、息子を睥睨していた目を緩めて、ほう?と言葉を溢して銀屏に其れをよこす様促した。
「ち、父上、お待ちを!」
縋る様に自分の足にしがみ付いて来る息子を、関羽はけんもほろろに跳ね返し、包みを開ける。
此の生真面目な息子が一体どんなものを自分に渡すつもりだったのか、気になって仕方無かったのだ。
「……む、」
「まあ…」
中身を見た瞬間、関羽は眉を顰蹙させ、銀屏はくすりと笑みを溢した。
関平が買って来たもの、其れは芙蓉の花をあしらった光沢のある繊細な作りの美しい櫛で……
要は、女物の櫛だった。
「……此れを、儂に使えと申すのか」
「違うのです、違うのです、父上!此れには訳がありまして……情けと思って平の話を聞いて下さい!」
今にも泣き出しそうな面で懇願するものだから、流石の関羽も聞いてやろうと言う姿勢になり……然し情けをかけて聞いてやる程、大した理由でも無かった。
「すると何か?お前は店主が勧めるものを其のまま買って来たと申すのか」
関羽は呆れ果てて大袈裟に溜め息を付き…其の理由は、こうだ。
父の誕生日、ならば美髯公と呼ばれる父に髭を梳く櫛を贈ろうと思った関平は、城下に赴き、露店で櫛を選んでいたところ、「此れへの土産ですかい?」と小指を立てて店主に言われ、其のまま此の櫛を買って来てしまったのだと言う。
「断る隙が無かったのでありまする…」
しゅん…、と項垂れて鎮座する関平を見て、関羽はほとほと情けなくなってしまった。
此の女物の櫛は置いておくとして、さて此の優柔不断の息子をどうしようか。どんな小言を言ってやろうか…、そう髭を撫でて考えている時だ。
「父上、不要でしたら銀屏に下さいな。櫛も、男に使われるより女に使われた方が喜びます」
そう言って、銀屏が両手を差し出して催促して来た。
確かに斯様に繊細で嫋やかな櫛は、武人に使われるより女に使われた方が喜ぶ。お転婆娘の銀屏だが、其の美しさは、水面に花咲いた芙蓉さながら。此の櫛を手に持って髪を梳く姿はさぞかし絵になる事であろう。
其の姿を想像して、娘にくれてやってもよかろうと思う関羽だが、息子が更に小さくなって自分の言葉を待っているものだから、流石にそんな考えは引っ込んでしまった。
「…使わずとも、仕舞って持っておくのもよかろう」
刹那、銀屏は頬を膨らませ、関平の面には笑みが咲いた。
使わず仕舞っておくと言うのも如何がなものかと思うが、此れが関羽の息子に対する精一杯の優しさ。
娘は不貞腐れているが、息子が喜んでいるのなら、此の場は取り敢えずよしとしよう……と思う反面。
忠義も誠実さも及第点に達し、温厚で生真面目な息子に不満等在りはしない。
然し、せめて“のー”と言える人間に育てねば、と。
切にそう思った、関羽なのであった。
2009.8.15終わり
6月24日〜8月14日までの拍手お礼文。
沢山の拍手、ありがとうございました。