お茶のおかわりは(馬平)
「お茶のおかわりは、如何ですか?」
そう背後から声を掛けたのは、年若い娘っこ。
成都の町中では男達が竹の長椅子に腰掛け、茶を楽しむ茶館と呼ばれる場所が所々に存在する。馬超が関平を連れて来た所も茶館で、其処は町外れの川沿いにひっそりと佇み、傍に咲く桜の花を望める乙な所。繁華や遠出に赴くのではなく、何故斯様に長閑な場所なのかと言うと、関平が花街や賭博を好まない人間で、最高に目出度い門出を迎える情人を祝ってやろうと馬超は思ったからだ。
最高に目出度い門出。
其れは関公の息子、関平に、縁談話が舞い込んで来たと言う話だった。
「あ、はい」
そう柔らかく笑って空になった椀を差し出す関平。娘も微笑み、茶瓶を傾けて茶を注いだ。
仄かに香る甘い桜の匂いに混じって、香しい茗香が馬超と関平の鼻を擽る。
其の中で馬超はすっかり冷めきった茶で喉を潤わし、思った。
軍神、関雲長の息子に嫁ぐ女だ。其処らの女が声を掛けられる身分では無いし、嘸や名のある将の娘か良家の娘なのだろう。例えば、星彩。男と見粉うばかりの武芸と胆力を父張飛から貰い受け、母夏侯氏からは美しい容姿と冷静さ、知性を受け継いだ芯の強い麗人。星彩ならば今一押しの弱い関平を上手く引っ張ってくれるだろうし、二人が寄り添えば関羽と張飛は真の家族となり、劉備も喜ぶ事此の上無い。劉禅は星彩を慕っていると言うが、同時に星彩の妹にも淡い恋心を抱いている。星彩が駄目なら妹と寄り添えば良いし、そうなれば劉備も家族となる。
成る程、良い縁談話だ。
共に喜んでやらねば。
そう思えるのは馬超が恋の伊呂波を知っている男であり、胸に抱く嫉妬心や独占欲と言った気持ちに打ち克っているから。
嫉妬も、時には恋の炎を燃え上がらせる刺激になるが、男色愛と言う、端から見れば性欲処理の関係でしか無い二人にとって、今だけは邪魔な感情だった。
だからこそ馬超は其の事を真摯に受け止め、後腐れの無い別れをしてやろうと心に決めていた。
―――――が、然し。
「馬超殿、如何致しましたか?」
ぼーっと眼前に流れる支流を眺めていた時だ。関平が首を傾げ、馬超の面を覗き込んで来た。
馬超は慌てて笑顔を取り繕って、
「いや、何でも無い。茶は口に合ったか?」
「はい。斯様に美味い茶を何度も飲めるとは、贅沢の極みです」
剰り休みも合わず、二人で出掛けるとなれば人の往来が激しい市場や花街。
最近になって出来た市場は、成都特有の料理や西域の珍味、影絵や賭博場と言った娯楽もあって、一日其処で過ごしても飽きない。特に影絵は関平のお気に入りで、「今日は何の劇をやっているのでしょう」と出掛け際に馬超に問い掛けて来たくらいだ。
然し馬超が連れて来たのは花街でも市場でもなく、日毎に色付く情景を望める茶館。
春の歩み寄りを感じながら飲む茶は、例え紛い物でも美味く感じ、長閑な一時を堪能する関平を見て、悪くない時間だと馬超は思った。と同時に、余りの関平の純粋さに少し呆れた。
「…お前、然して貧した家の出でもないのに、何故そうも有り難く頂く」
「そんな事はありませぬ。今までの苦労を思えば…其れに江陵にいた時は、茶は贅沢品。本物ともなれば拙者には口にする事の出来ない代物です」
「言っておくが此れも紛い物だぞ?」
「存じております。然し、ああ、美味い」
一口茶を喉に流して、ほぅ…と息を吐く関平。
何とも爺臭い光景に、馬超は苦笑してしまった。
「…幸せな男だな」
「ははっ。其れも今の拙者の気持ちがそうさせるのでしょう」
軽く笑って、関平は眼前に流れる支流をぼんやりと見つめた。
つられて、馬超も。
緩やかに流れる支流の傍に点在する薄紅色の木々。咲き誇る桜の花は色とりどりに綻び、ひらひらと風に舞っている。耳に響くせせらぎ、木々を鳴らす風の音、日の暖かみ、流れ行く雲、晴天。
戦いこそが命の証と謳う乱世には、似つかわしくない季節の流れだ。
そして、今の気持ちも。
日毎に色付く情景は、日毎に近付く別れの時。
相手の為だと分かっていても、恋の伊呂波を知っていても…美しく咲く花を見て、馬超の心がちくりと傷んだ。
そんな馬超の心情は関平には伝わっておらず、関平は瞳を閉じて春の暖かさ、頬を撫でるそよ風を一身に感じていた。
「まるで戦場に赴く時の様な気持ちです」
人の命等、紙屑だ。
死と言う終焉が繰り広げられる其処は、阿修羅の如く叫び声が飛び交い、阿鼻叫喚が響き渡る。然し敢えて赴く漢達の姿は、悲しい程美しい。そして出陣の銅鑼が鳴り響く瞬間迄、何故か心静かになる。
戦は漢の華舞台。
散ってこその華となる。
其れは、正しく、
「桜は、漢の花であります」
刹那に散り行く其の花は、乱世に身を投じる漢達の姿ではないだろうか。信念を、生き様を、理想を。貫き通す果てにあるのは、其れが定め。儚く散って行く姿はある意味滑稽に見え、然し彼の人はそれがいいと言った。だが馬超には…、今此の瞬間だけは、其れに同意出来なかった。
「お前は、散るな。散ってはならぬ」
馬超はひらひらと風に舞う薄紅色の花弁を眺めながら“本音”ではない“本音”を呟いた。
「お前には、守るべきものがあるだろうに」
関平も視線を眼前の支流に定めたまま、黙って馬超の言葉を聞いていた。やはり自分よりも早くに戦場に立ち、名声を手に入れ、多くを失った馬超の言葉には重みがあった。散るなと言う言葉も、守るべきものと言う言葉も、まだまだ未熟な関平には、尊び言葉だった。
「漢王朝再興と言う夢や、後に産まれる子がいる」
「馬超殿…」
関平は双眼を見開き、少し驚いた様な表情で馬超を見た。
対して馬超は、関平の視線に気付きつつも、其れでも眼前の支流から視線を移さず、話を続ける。
「嫁いで直ぐに未亡人とは…悲しい事だろうに」
「其れは…」
「身籠っているのなら尚更だ」
――――暫し、馬超にとって重い沈黙が流れた。
本音ではない本音とは、相手の幸せを望み、然し手離したくはないという葛藤が生み出したもの。
だからこそ、辛い。
「…馬超殿」
其の沈黙を静かに破ったのは関平。関平は手に持っていた椀を長椅子の上に置き、
「何の話をしているんだ」
「何のって…………………はい?」
そうして、ようやっと。
馬超も関平に視線を移し、其処にいた関平は、疑問符を浮かべながら馬超を見ていたのだった。
――――――――――
「ははっ!拙者がですか」
何故馬超がそんな事を言い出したのか…其の顛末を関平に話すと、関平は腹を抱えて呵々と笑った。
其れに腹が立ったのか、いや、勘違いであんなにしおらしくなった自分を認めたく無かったのだろう。
馬超は苦虫を潰した様な顔で関平を俾睨する。
「然し、何も無い所に煙は立たぬ」
「其れは恐らく、穆氏の事ではありませぬか?」
「穆…」
聞き覚えの無い…そんな失礼な話があるものか。
穆氏とは孫夫人が呉に帰り、一人寂しく暮らしていた劉備に嫁いだ呉懿の妹、劉備の第四夫人の事で、後に漢中王后、皇后となり、後主劉禅が即位すると皇太后となった女性である。
――――そう言えば近々、劉備と穆氏は華燭の典を開くとか何とか…一体全体、何処で関平の事だと勘違いをしてしまったのか。
恥ずかしい事此の上無い。
馬超は懐に忍ばせていた鉄扇を取り出して広げ、薄紅色に染まる頬を隠してしまった。
関平は薄っすらと浮かぶ涙を指で拭って、
「拙者にはまだ先の話です。未熟者ですし、嫡男に興がおります。急く事でもありませぬ。其れに…」
ふと関平が言葉を綴るのをやめた。
穏やかな河の流れと頬を撫でる風の音だけが優しく耳に響き―――――其の沈黙に耐え兼ねたのか、馬超は広げた鉄扇越しに関平をちらりと見た。
其処にいた関平はひらひらと舞う薄紅色の花の様に頬を染め、はにかんでいて、
「拙者は今でも…、馬超殿の事を慕わしく思っております」
瞬間、馬超の頬は関平の頬よりも真っ赤に染まってしまった。
其れは手や唇、肌を重ね合わせる事よりも何倍も満たされる、甘く擽ったい言葉で…照れ隠しなのか、馬超は鉄扇を扇ぎ目を泳がせてしまう。関平も自分が呟いた言葉に照れ臭くなり、下を向いてしまった。
そんな二人に声を掛ける人間が一人。
「お茶のおかわりは、如何ですか?」
娘が茶瓶を携えて二人の前にやって来た。
成都のお茶はおかわり自由の飲み放題。だからこそ散歩の寄り道に、一休みに。ゆるりと流れる時間を楽しむ事が出来る。
二人は視線を交わし、揃って椀を差し出して、
「「是非に」」
すると娘はにっこりと微笑んで、順に茶を注いだ。 娘が他の客の所に立ち去った後、馬超と関平はまるで酒を酌み交わす時の様に椀を掲げて―――――其の時の事。
薄紅色の花弁がひらひらと風に舞い落ちてきて、二人の椀の中に浮かんだ。絹の様に艶やかな花弁が茶に浮かぶ様子は此の上なく美しく…思わず、二人の面から笑みが溢れた。
「何と、乙な事よ」
「全くです。人に向かって咲く花の風流であります」
日の花は天に向かって咲き、刹那に散り行く花は人に向かって咲き誇る。
其の姿は漢の夢、漢の花。
明日ありと思う心の仇桜となる非情の世に、風流に掲げる此の椀に、二人は誓った。
だからこそ、恋をしよう、と。
2009.3.10.終わり
5000打キリ番リクエストお礼文です。
マール様、キリ番&リクエスト、ありがとうございました。