嫉妬も憧憬も(興平)
「父上が黒い豚に噛まれる夢を見たそうだ。豚は龍の象徴。此れは吉兆だから、此度の戦は…」
其れでは興は其の言葉を信じます。信じなければいけないと思うからです。
老いたりとは言え虎臣であり、青龍刀を携え、赤兎にて先陣を切る父が敗ける筈が無い。左伝の乱臣賊子の伝を見ては、常に怒りを露にし、義を重んじる父が何よりの誇りだ。父の様になりたいと思うも、然し幼少の時は辛辣で怖くて、父と言う存在が嫌で嫌で仕方が無かった。そう思っていたのだから、父に逆らうなんてする事も思う事も出来ず、隠れて泣くと言う事を覚えた。そんな俯いた自分を目敏く見つけ、手を引き、其処から立ち上がらせてくれた兄の優しさに何度触れて来た事か。同時に、
「父上はお前に期待しているんだ」
まさか、興は凡人です。
凡人だからこそ、父上は興では無く兄上を傍に置くのではありませぬか?
嫡子は興であります。
父上の隣に立つのは、興であります!
…と、父を疎遠すると同時に、自分の立ち位置を決め、嫉妬に駆られて兄を疎ましく思っていた事もまた事実。
常に兄を傍に置いて、多忙なのかどうかは知らないが、自分には目もくれなかった父。そんな父の恩恵を一身に受ける兄が…優しさはまるで優越感としてしか感じられず。唯の八つ当たりだったのかも知れない。腹立たしくて仕方が無かった。
然し、自分は兄よりも幾分も若く、戦も政務も何も出来ない子供。何より養子とは言え、長子である兄を自分の手元で育てたいと思うのは、親心なのかも知れない。
其れがわかる歳になると父の姿と厳しさは畏敬となり、目標となり、兄の姿と優しさは嫉妬から憧憬に変わって…兄の優しさが無ければ、自分は腐っていたのだろう。
「兄上の言葉を信じるとすれば、興はまた、兄上に逢えるのですね」
「信じないのか?」
馬上した関興が関平に視線を移すと、其処には養父を信じて疑わない眼差しと、成都に発つ弟を心配する関平の面があった。
「兄上は、興がお嫌いですか?」
「何を」
「…嫡子が生まれなければ」
後を嗣ぐのは兄上となった筈。兄上こそ、興を妬ましく思っているのではありませぬか、と。
後に続く言葉が喉元に引っ掛かり、引っ込んだ。
自分ですら兄に嫉妬を抱いていたのだから、兄にだってあった筈だと関興はずっと胸に秘めていた。
あったのだろう。恐らく。
だが関平は其れを克服し、基、其れは過ぎ行く歳月と共に薄れて行き、原点に立ったに過ぎ無かった。
養父の後を嗣ぐ為に蜻蛉になった訳では無い。漢王朝再興と言う悲願と、養父の期待に応える。後を嗣ぐ弟に憤りを覚えるのでは無く、寧ろ養父の名を汚す事の無い様、導いてやるのが兄としての責務。
其れは振り返れば直ぐ傍にある答えで、其の過程で苦痛を感じた事は一度も無い。細やかな幸福、血の繋がりを越えた友悌であったと。
「好きだ。大好きだ」
好きとか嫌いとか。
其処に存在しない程、お前の事を想っている。然し、お前は言葉にしないと信じないのだろう?
まるでそう言う様に、頑是無い子供を愛す様な笑みを湛える関平は、正しく兄であって、其れを受け止める関興の面は、弟だった。
「…ならば、ならば興は信じます」
互いに満足そうに笑って、暫しの別れを惜しむ二人。
其れが終わった後、関興は馬の腹を蹴って走り出し――――…
兄上の“好き”は友悌から来る“好き”。
其れでいいと思う。
嫉妬も憧憬も全て其処から生まれたものだから。其れなのにこんな気持ちを持つなんて、自分はなんて身勝手な人間なのだろうか。然し、そんな我が儘ですら兄は受け止めてくれると思っていて…自分は、兄にとことん甘えている。淡い期待を抱いている。だからこそ兄上の言葉を信じたいし、信じなければいけないと思う。
信じるからこそ、兄上。
“生きて”お逢い致しましょう。
2009.5.10.終わり