Song A
バイト先から歩いて5分のイタリアン。
先輩に奢ってもらってタダパスタ。
あと生ビール。
「じゃ、また次のシフトのときに」
と地下鉄の駅に消えていくその背中にぶんぶんと手を振った。
ま、しばらく行かないんですけどね。
信号待ちをしながら開けたラインに2時間前のその7文字。
「今から会える?」
今日はツイてる。
もちろん、と返してすぐに青信号。イヤホンから聞こえるラップ。ビートに合わせて夜道が揺れる。車が前に来たり後ろに来たり。青と赤のネオン。指がすべって電話のマークを押してしまった。
「Hallo?」
「酔ってるね?」
ラップが途切れ、氷室の声が聞こえてきた。なんでわかるんだろう?
「酔ってない〜」
「迎えにいくよ。今どこ?」
「人形町」
「バイトか。わかった。カフェで30分くらい寝てて」
「やった、ありがとう!」
氷室は「大人しくしてるんだよ」とまた念を押した。
氷室も今日はずいぶんとご機嫌のようだ。いつだったか電話をかけた瞬間に切られたこともあるし、英語でshitだのbitchだの怒鳴られたこともある。
やっぱり良く出来た日だなあと思いながら、横断歩道を渡り直し、よくあるチェーンのカフェに入った。
よくある豆乳ラテを頼み、ゼミの課題をバックから取り出したところで、必要以上に落ち着いてしまい、急激な眠気。
コツン。
遠くの方で音がする。眼前に赤く光る池が立ちのぼるように現れて、音がした方向から波紋が広がっていく。
名前。
私を呼ぶ声がして、波紋がぐしゃりんと乱れる。
「名前。いつまで寝てるんだ」
「……京介?」
「タツヤだ、酔っ払い」
気付くと課題本の上で突っ伏していた。横を向くと見慣れたベルトのバックルが目に入る。腰の位置が高い。
「寝てていいって言ってた」
「爆睡しろとは言ってないさ」
氷室は私の肩に手をかけ、ぐいっと引き起こした。
「痛い痛い」
「帰るよ。車すぐそこだから」
そう言う氷室の目が据わっていることに気付き、慌てて荷物を引き揚げ立ち上がる。
「いい子だ」
氷室はむらむらとした目つきをした。
大きな手で腕をつかまれ、そのまま店を出ると、むわっとした外気に包まれた。
「暑いね」
氷室は何も答えず、人気がない方へすたすたと歩いていく。一本右に入ると、潰れかけの飲食店が並ぶ路地裏に出た。そこにひっそりと氷室の車が待っていた。
氷室がドアに触れると、ピピッと鳴いてカギが開く。私を後部座席に放り込むと、氷室もそのまま座り、ドアを閉めた。
「名前」
チュッと頬に唇が触れた。
「もうするの?」
「ちょっとだけね」
辺りは真っ暗で氷室の顔も見えない。ただ暑くて、大きくて、重い。
いつも氷室からは「ささやかな恐怖」を感じる。DVやゾンビやストーカーといった類のものではない。例えるなら、廃バスだ。
日本のどこかにバスの墓場があるらしい。そこでは、車輪も窓ガラスもないバスが、土に半ば埋まるようにして、何台も何台も積み重なっているという。
死体のように土に還るのでもなく、他の金属に生まれ変わるでもなく、ただ吊革と下車ボタンを残して、存在している。
「たまにはホテルでも行こうか」
氷室は運転席に戻ると、ぽつりとそう言った。
「この時間から?」
エンジンがかかると、カーナビが22:37と青く光る。
「さっき予約しといたんだ。期待していいよ」
「明日は暇なの?」
「名前は?」
オンライン授業があることを思い出したが、頷いておいた。廃バスがもっと埋まっちゃうといけないから。
「でも、いいホテルじゃないと嫌だよ」
「いいホテルって?」
「ベッドがふかふかで、飛び込めるくらい広くて。白い家具があって、ルームサービスが来るの」
車が動き始めた。氷室の細い指がボリュームをひねる。夜みたいに低いベースラインと短い英語の歌詞。聴いたことはないけれど、その曲がこなれていることは分かる。
「君はラッキーだね。まさにそういうホテルだよ」
「やった!」
氷室はふふっと笑った。
20200722
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