骨のかたちを憶えている
いつでも帰ってきてくれていいからね。
バイト先の店長のその発言は、憐れみから来るものだと名前は思っていた。
「そりゃ、『さみしい』方やろ」
Enterキーが音を立てる。今吉の眼鏡に、ノートパソコンの画面が映っている。
その様を、名前は今吉の右膝から眺めていた。
「さみしいって、店長が?」
「ファミレスの店長やったら40手前くらいか。まーそういうおっさんからしたら、高校出たての女の子なんて何も分からん子どもみたいなもんや。それが急に神妙な顔して、覚悟決めたみたいに辞める言うたら」
と、今吉は言葉を切り、私の額に手をそっと置いた。伸びてきた前髪をするするとこめかみの方へ流す。
「そりゃあ、さみしいな。成長して、自分の手離れるんやから」
その手つきの心地良さに、まぶたを閉じると、おでこにふわりとキスが降ってきた。
「なるほど。そんな風に考えたことなかった」
「まあ、カレシとしては名前にそこまでさせた男は気になるけどな」
名前がおそるおそる目を開けると、今吉はにいっと笑った。
「失恋したショックで、そいつに関係ある物事全部切ってしまった、とかな。それが店長にバレたと思ったから『憐み』なんて言葉が出てくるんちゃう?」
わずかな沈黙。今吉は名前をこれ以上追い詰めるかどうか考えているようだった。
「すごく優秀な人でね。高校出たての何も分からない私には、手も届かないと思ってたの」
名前が話しはじめると、今吉は再び液晶に目を戻した。
「彼は、私がそのとき腐れ縁みたいになってた男の友達で。共通の話題がそれしかなくて。でもどうしても話したくて、恋愛相談っていう体を取ることにしたの」
「アグレッシブやな」
「今思えば頭おかしいんだけどね。それで連絡取るようになって、しばらくしたらご飯に行くようになって、それで」
「それで?」
「好きだって言ったら、いなくなっちゃった」
名前は呼吸が浅くなるのを感じながら、今吉の反応を待った。
「それだけかいな」
「……は?」
思わず喧嘩腰になった名前を、今吉は鼻で笑った。
「よくある話やん。相手は友達だと思ってたのに、違ったから切ったってだけ。重すぎるで」
「でも、彼は」
「勘違いさせるような素振りしてたって? そんなん名前だってサークルの男にリップサービスでする程度のもんなんやろ。好きすぎて勘違いしたってだけや」
今吉はばっさりと言い捨てると、名前の顔を見て、「ごめんな」と言った。
「でも、そんなもんやで。はよ忘れな」
名前が受けたショックは並大抵のものではなかった。幾度となく思い出し、あらぬストーリーを考えては、自分の心を慰めてきたことだ。こうもあっさりと否定されるとは思ってもみなかった。
しかし一方で、名前は内心ほっとしていた。解放感が広がった、と言ってもいい。じわじわと、なにか温かいものが心を満たしていくような感じがした。
「……もう、忘れていいのかな」
「ワシとしては早急に忘れていただきたいわ」
「そのときずっと追っかけてた私を否定していいの?」
名前は彼に向けた全ての努力を思い出した。
難しい言葉を覚えてみたり、腐れ縁とわざと関係を乱してみたり、駆け引きのようなものをしたり。
「いまだに忘れへんの、その男のこと好きだったんじゃなくて、その男にかけた労力を無駄だと思いたくないからやろ」
名前は今吉のひざの上から起き上がった。なんだか頭がくらくらした。
「過ぎたことに良いも悪いもないで。色んな評価してきたと思うけど、それで今がなんか変わったか? そいつから『すまんかった、やり直そう』とか言われたか?」
「……言われてない」
「やろ。なら無駄な体力使わんように、ワシのことだけ考えとき」
今吉は「な?」と腕をのばし、名前をその中におさめた。名前の後頭部を撫でながら、耳元で囁く。
「今後は言わんといてな。……名前が他の男の話するの、さみしいわ」
今吉が露骨に嫉妬するのも珍しいと思いつつ、名前は「もう忘れたよ」と言った。
目の前には今吉の肩があった。ごつごつとしたそれに額を押しつけて、深く息を吐くと、ちょっとだけ身体が軽い。
titled by ennui
20200714
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