風の街


人生五十年と信長は今際の際に唄ったそうだが、二十年でもそれなりに人生経験を積むことを思い知らされるときがある。
日常の小さな違和感が、遠く忘れかけていた記憶を呼び覚ます、デジャブとか。とか。

「あんた、中指に指輪してんの」

高尾の目の前に座る名前は、細い指をティーカップに巻きつけて、湯気の立つダージリンをゆっくりとすすった。耳元で揺れる銀のイヤリングが、喫茶店の橙色の照明を慎ましやかに反射する。真っ黒な長い髪は、丸襟の紺のワンピースの稜線にそって、薄い肩の向こう側へと垂れている。

「別にいいじゃない。イライラしないでよ」
と、名前は少し驚いたように言った。

「ぶぇーつーにぃ、あんたが指輪してることにイラついてるわけじゃねえよ。ファッションだろ」

高尾はストローからアイスココアを一気に吸い込んだ。一杯1100円の重みはさすがのもので思わずむせる高尾を尻目に、名前は自らの左手を照明にかざすようにした。

「街でベージュのコートを見かけると、指にルビーの指輪探すのさ」

高尾はびくりとして名前を見た。

「ルビーの指輪?お前いくつよ」
「同い年」
名前はふふんと笑ってメロディを口ずさむのをやめた。頬に手をつき、挑むような目つきで高尾を見上げる。

高尾は迷った。デジャブの内容を口にしていいものかどうか。言葉にすることで「その先」が変わったことがあったような気がした。だが、いま教訓にするにはあまりにも遠い記憶だった。それこそデジャブぐらいの。

「大学入ったばっかのとき」
名前は黙ってティーカップに手を伸ばした。それを見ながら、高尾は自らの言葉がおりてくるのを待った。

「さえない女の子と3か月くらい会ってたんだ。よくわかんない短大の、ちょっと影があるような。友達の友達で、彼女は俺の友達が好きで、相談相手になってて」

それで、と名前は淡々と言った。

「月に2回くらいかな? 2人で会ってて、お互いの文化祭なんか行ってさ。ぜんぶで10回は会った。飲んだり、ちょっと遊びに行ったり……でも、あとちょっとってところで、突然いなくなっちゃったんだ」
「へえ」
「ま、よくある話だよな。それだけ。俺のダサい話は」

高尾は自分の言葉が上滑りするのを肌で感じながら、今や懐かしいその横顔を思い浮かべた。
真っ黒で大きな瞳が、すこし悲しげに閉じたり、開いたりするのを眺めているのが本当に好きだった。
ああ、声だって思い出せる。普段は聞き取れないくらいなのに、酔うと芝居がかったように高くなって−−。

「中指の指輪は?」

名前は興醒めといった様子で、なげやりにそう言った。

「そう、彼女がつけてたんだよ。意味ありげな黒い指輪でさ。しかも『和成くんと会うときしかつけないよ』なんて言っちゃって」
「メンヘラじゃん」
「……あのなあ、あんたすぐキモいとかエモいとか言うタイプだろ」
「悪いの?」

はたと、名前が怒り始めていることに気付いた。デート中にむきになるなんて高尾らしからぬことだった。緑間がいればきっと今日のアンラッキーアイテムは指輪だったと後知恵してくるところだろう。

「やっぱ言うんじゃなかったな」
「なんで?」
「だって名前、俺の見方変わったろ? 俺、けっこーダサいからさ、20年間ずっと」

名前が不意に黙り込んだので、高尾は内心驚いた。名前はなにやら慎重に言葉を選んでいるようだった。
デジャブだった。
これが「その先」だと高尾は分かってしまった。
彼名前が恋愛相談を持ちかけてきたときの、あの日の高尾自身が目の前の名前と重なって見えた。

名前は何か慰めるような、けなすような短い言葉を発したようだった。高尾が上の空でうなずくと、名前は畳み掛けるようにエピソードトークを始めた。長い話になりそうな予感がした。

高尾は迷った。もはやどこでなにをしているかも分からない彼女に縋りたい気分だった。

あの日彼女は高尾を切り捨てた。どうせ好きになれないなら仕方がないと言わんばかりに。
今日は、今日でなくても近いうちに、高尾は名前を切り捨てるのだろうか? それから何ごともなかったように日常を過ごすのか?

高尾には出来ない気がした。名前それ自体がかわいいとか押しが強いとかではなかった。もっとエゴイスティックな欲求だった。

あの日の自分が救われたがっていた。
あの日の自分と同じ名前を受け入れて、自分の痛みをやわらげようとしていた。
高尾はくもった窓ガラスに指をなぞらせた。
新宿駅の往来がこちらを見上げていた。
雪が降っていた。



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