目を開けたらまっしろな世界が広がっていたから、あの世かと思った。

「起きたか、リサ」
左腕に刺さった点滴の針と、隈のにじむセンセイの顔を目にするまで。

「菅原、先生」

そう呼ぶのは本当に久しぶりだった。
センセイはーー菅原先生は僅かに眉を吊り上げる。驚き、安堵、哀しみ。

感情という絵の具を油絵のように何重にも塗り重ねた世界、それがこの世なのかもしれない。



今吉は菅原先生と入れ違いに病室に入ってきた。
制服は着ていない。初めて見る私服だった。

「お早うさん。お加減はいかが?」
「ただの貧血だって。ベッド足りないから午後には出てってくれって言われた」
「はは。医療現場はシビアやな」

今吉はけらけらと笑いながら、見舞いのつもりらしい小さな花束を窓辺に置いた。
一瞬だけ外に向いたその横顔に問う。

「ねぇ。何も、話さなかったの?」


目覚めたら開口一番、自殺未遂のことを言及されるかと思いきや、医師も菅原先生も何も言わなかった。
もっとも、先生はそのことを薄々は感じ取っていただろうけど。
言わなかった、当然だ。

「はて、何の事やろ。お前さんは受験によるストレスで、貧血をおこして倒れた。それだけちゃうん?」
「……そう、」

ありがと。
私が小さく呟くと、今吉はいつもと変わらぬ悪そうな笑みを浮かべた。


「で、これからどうする気なん?」
「……本当は学校を辞めようと思ってた。芸術系の授業で顔合わせんの、やだったし」

今吉は先生が置いていった菓子折りに視線を向けた。



『もう、終わりにしませんか』
『……本当に、済まなかった』
『もういいんです。私は』
まさかその言葉を私が発することになるなんて、夢にも思っていなかった。

『……菅原先生、お願いがあるんですけど。あの、』
『やめてくれ』

菅原先生は眉を寄せて私の言葉を引き取った。切なそうな顔をする。

『リサじゃなくて、僕が学校を辞める』
『どうして……』
『僕はいくらでも転職できるけど、君が高校を卒業できるのは1度きりだから。許してくれとは言わないが、けじめくらい僕につけさせてくれないか』


「でも、ちゃんと学校は卒業しろって」
「進路はどうする気や」
「とりあえず、浪人かな。美大には行かないつもり。今吉は?」
「しゃーないから1浪でT大に行こうかと思うてる。出来れば現役がええんやけどなぁ」
「全国の受験生に失礼だよ、それ」

綿菓子のような沈黙。不思議なほど、気持ちがいい。

今吉がふと窓を見上げて、眩しそうに目を細めた。
冬の昼の、穏やかな日差しは影を作らない。


「今吉。なんか書くもの持ってない? それと、紙」
今吉は私に向き直って怪訝そうな顔をした。
「久しぶりに描きたいものが出来たの」

「なんや、終わりにするんじゃなかったんか」
「描いてないものを思い出したから」

ベッド横の引き出しにあったらしいメモとボールペンを受け取って、私は笑ってみた。


「今吉、そこの椅子に座って」


生きている人間を、描いてみたくなった。




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