59,5≠赤司
朝起きて、隣に誰かがいるなんていつぶりのことだったろう。
ひととおり笑ったあと、布団から這い出したマキが台所で−−ベッドから見える距離だ−−朝食を作る後ろ姿に、僕はふとそんな疑問を抱いた。
「征十郎? どうかしたの?」
おばあさん仕込みなのか、料亭らしいはんなりとした卵焼きを咀嚼していると、マキは少しだけ不安げな表情を浮かべた。
「いや、ご飯はとても美味しいよ。ちょっと思い出せないことがあって」
「ふーん? 征十郎でもそんなことあるんだ。記憶とか得意そうなのに」
「たしかに記憶力には自信があるんだが…… なんというか、茫漠とし過ぎて全容が掴めないというか……」
いつからか知らないが脳の片隅に追いやっていたその記憶に、僕は手を伸ばせないと思っていたし、今まであえて思い出そうとしたこともなかった。
だが、たしかにマキの後ろ姿にその断片を見たような気がしたのだ。
断片というよりは、既視感。どこかで見たような情景。
「えっ、待って、あたしの国語力が追いつかない」
「…… そうだな。忘れていた。お前はそういう奴だったな」
がくっ、と全身の力が抜けるようだった。マキらしいといえばそうだが、肩透かしを見事に食らった形だ。
むしろ、もう少し肩の力を抜けということだろうか−−と思い直していると、マキはおもむろに部屋を見回した。
食卓から始まって、本棚、ローテーブル、ベッドの脇、窓枠と視点を移動させ、最後は僕に戻ってきた。
「探し物は見つかったか?」
「ううん、どこにも。前から思ってたんだけど…… この家、一枚も写真がないよね」
「なぜ写真を?」
「うーん、特に意味はないんだけど、記憶って聞いて思い浮かんで。そういえばって思って」
底の方まで透かしてしまいそうなマキの目を感じる。
曖昧にごまかすのは逆効果だろう、と判断して席を立った。
「ごちそうさま、美味しかった。洗い物が終わったらアルバムを持って来るよ」
「やった! ありがと、征十郎」
「どういたしまして。また、作って」
白かったはずのアルバムは、クローゼットの奥で埃をかぶって、すっかり黄ばんでしまっていた。
試しに開けてみると、パキパキと枝が折れるような音がした。
「…… 征十郎、もしかして部室のロッカーもまずいことになってない?」
「なってない」
マキはラグの上で両足を伸ばしながら、呆れ返ったような顔をした。
クローゼットの扉をきっちり閉めてから、その隣にあぐらをかく。フローリングにアルバムを置くと、マキは一変、興味津々の体で身を乗り出してきた。
「あれ、赤ちゃんのときの写真は? 見たかったのに〜」
一枚目はもう小学校の入学式のときの写真だった。
赤い髪の少年が、灰色のブレザーと臙脂のネクタイ、チェック地のハーフパンツを身につけて、にこりともせず立っている。
少年の横には、墨で入学式と書かれた看板しかなかった。
「母が実家に持って帰ったんじゃないかな。僕が持っているのはこれともう一冊だけだから」
「そっか…… でも、このときと今、あんまり変わってないんだね」
「そうか? 心外だな」
驚いてマキを見ると、「根っこの部分は、だよ」とくすっと笑ってみせた。
納得出来ないでいると、マキは次のページの写真で、滑らせていた視線を止めた。
「これ、誰?」
指差したのは坊主頭の少年だった。
彼は困り顔の赤い髪の少年などお構いなしに肩を引き寄せて、にかっと笑っている。
二人とも紅白帽をかぶって外にいることからして、どうやら運動会の写真のようだった。
「ああ……懐かしいな。彼が一番仲の良かった友人だよ」
「本当だ、写真いっぱいある」
僕が彼みたいなタイプの人間と付き合っていたことがよほど意外なのだろう。ぱらぱらとページをめくりながら、マキは不思議そうに言った。
「実はね、僕がバスケを始めたのは彼のおかげなんだ」
「うそっ!?」
「本当だよ。見ての通り、僕らにはほとんど共通点がなくてね。何か彼と共有できるものがほしくて、それで、まあ今に至るのかな」
「そんな簡単に今に至る訳ないって」とマキは笑うが、色々あったようでいて、その実、バスケ以外のことはあまり覚えていない。
改めて思う。バスケが全てだったと。
「ああ、バスケ以外のことで言えば、マキと出会ったことかな」
「もうっ、冗談やめてってば! ほら、小学校のとき、好きな人いなかったの?」
「冗談ではないけど…… まあモテたことは確かだな」
「そっちじゃなくて、いやそっちも気になるけど、征十郎自身はどうだったのって話」
僕はどうだったか。
この上なくシンプルな質問なのに言葉が出てこないのは、今まで必要とされてこなかったからなのだろうか。
マキは何も言わず、アルバムに視線を落とすと、再びページをめくり始めた。
遠足の写真、親戚の結婚式の写真。年を重ねるごとに張り付いたような笑顔が増えていく。
少年が赤司家の跡取りとして成長していくのが手に取るように分かる。
「小学校はこれで終わりかあ。次は中学のも見たいなー」
マキが裏表紙を閉じようとした途端、一枚の写真が床に落ちた。
僕は、手を伸ばそうとするマキの手を無意識のうちに払いのけていた。
まだ幼ささえ残す顔立ちの、赤い長い髪の女が、同じ髪をした幼い子供を抱えて、儚げに微笑んでいる。
「僕は、僕には好きな女の子なんていなかったけど、この写真はよく見ていた記憶がある」
「…… お母さん、亡くなってたんだ」
悪かった、と言って写真を手渡すと、マキは黙って首を振った。
「とてもきれいなひとだったんだけど、身体が弱くてね、僕が物心つく前に死んでしまって、もう今はほとんど思い出せない」
神妙な表情を浮かべるマキにそう言いながら、はっとした。
ボールを投げられたような振動と共に、さっきのぼやけた既視感が明確な像を結ぶ。
あれは、僕に朝食を作ってくれた、在りし日の母の姿だった。
ぼうっとマキを見ていると、「マキはどうしたの?」とあっけらかんと問うた。
「…… 何でもないよ。それから、中学のときのアルバムはまた今度にしよう。もうそろそろ家に帰った方がいいんじゃないか?」
マキはやっと思い出したのか、素っ頓狂な叫び声をあげた。
ふっと身体が軽くなるのを感じながら、やっぱりこうじゃないとな、と僕はまた笑っていた。
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