▼どうか、ためらいなく
理由は単純
もっと近付きたいだけだった
けれど、情けない事にその一歩が踏み出せない
あろうことか、胃まで痛くなって来た…
「鬼道くん?」
ハッとすれば夏未が首を傾げて鬼道を見詰めている
「どうかした?」
「いや…」
何となく、鬼道は目を逸らす
今の自分の気持ちを見抜かれないか不安になり、咄嗟に話をすり替える
「に、しても、いつになったら名前で呼んでくれるんだ」
「それ、は」
隣の夏未が膝の上の両手を握り締める
「もう、少し」
赤面して俯く夏未を眺めながら、やや、あからさまに息を吐く
夏未の羞恥心を責めるのは間違っている
それは分かっていた
ただ、自分が今、本当に望んでいることは、もしかしたら独りよがりなものなのかも知れないと、思ってしまうことを避けたかった
思ってしまったが最後、それはぐるぐると渦を巻いて自分を悩ませることを鬼道は知っているから―…
もっと近付きたいと、夏未も思っていてくれるのだろうか
それが解らないから、常に自信家の鬼道がこんなふうに悩んでいる訳なのだが
「結局、名前で呼び合う機会に恵まれないまま、みんなにバレてしまった訳だがな…あれから随分経つんだぞ」
「分かってるわ…」
そんな形にこだわらなくとも、自分達は公認の彼氏彼女で将来も約束された婚約者同士
只、だからこそ、踏み込める領域…次から次にそれを欲するのは贅沢だとも分かっている
肩を並べて一緒に帰ることも
手を繋ぐことも
名前で呼び合うことも
それから―…
夏未はいつも受け身だったから(大抵の女子はそれが普通だろうが)男の自分が思いを無理に通しているだけではないのか、と極稀に、鬼道は心配になることがある
好きだから、相手を大切にしたい
でも、もっと特別なものも、得たい
只でさえ意思表示の少ない夏未にそれを望むのは間違っているのかも知れないけれど、言葉が無理なら、と考えてしまうのは無理からぬ話ではないか?と鬼道は自身に言い訳をする
「そんなに怒らないで…」
沈んだ夏未の声
「別に怒っている訳では無いんだが…」
「わた、私にとって名前で呼ぶってことは告白にも等しいぐらい勇気がいるんだから…」
はあ、と溜め息をつく夏未を思わず見詰め苦笑すると、鬼道は立ち上がる
「そろそろ行くか、理事長も心配するだろう」
「……」
鉄塔広場の点灯した街灯を見詰め、夏未は何処か思い詰めた表情を見せた
「どうした?」
「……情けないわ」
「…ぇ?」
「好きな人の望んでいることを叶えて上げられないなんて」
「随分大袈裟だな」
「大袈裟、ですって…?」
夏未はゆっくりと立ち上がり、鬼道を見詰めた
「私は何時だって、貴方の望みを叶えたいって思ってるわ…」
そう、夏未は自分に言い聞かせるように言う
自分自身を思い通りに出来ない苛立ちが其処には見え隠れして――…そんな夏未の感情が手に取るように、解ってしまう
しかし何処か挑戦的な瞳を鬼道に向ける夏未
「貴方の葛藤など全てお見通しよ」と、言うように…
ぎくりとしてその瞳に魅入ったなら、それは鬼道の胸を疼かせて、鼓動を早めさせる
「それともそれは、…私の独りよがりな願望なのかしらね…」
「ッ――……………」
誰も居ない、その場所で、自分の心臓だけがどきどきと音を刻んでいるような感覚が鬼道を包み、呻くように鬼道は声を絞り出す
「それは、――……」
いや、言葉、など―…
迷いを振り切り言葉を切る
鬼道は足早に夏未に近付いてその手首を掴んだ
そして無言で街灯の下から、タイヤの吊るしてある木の下へと移動する
灯りが届かないことはこの上ない幸い
今の顔をまともに見られたくなかった
仄暗い木の下で、幹に夏未を押し付けると、夏未の持っていた鞄が落ち、どさりと音を立てた
「……」
「……」
実に、静かであった
街灯がジジ、と音を立てる以外其処には何も無く、鬼道と夏未は只見詰め合っている
鬼道がゴーグルを額に上げ、そしてそれが合図であったかのように、どちらからともなく鬼道と夏未は唇を合わせた
「人を挑発出来るくせに、名前は呼べないんだな」
「ちょ…?挑発…?私がいつそんなことをしたのよ?」
「なら、是非呼んで貰いたいものだ」
「いいわよ、呼んで差し上げるわ………!ゆ……」
鼻息荒く、果敢に挑戦する夏未であったが、その可愛らしい唇からはどうやっても鬼道の名前が出てくる気配は無い
「ゆ…っ」
顔を真っ赤にして唇を尖らせる夏未を眺め、かなり満足した鬼道が笑った
「もういい…解ったから、いつか呼べるようになったら呼ぶと良い」
「何よ馬鹿にして…」
フン、と顔を逸らして歩き出そうとする夏未を掴まえて、抱き締める鬼道
「ちょ…!」
戸惑い、怒る夏未を放って、そっとその唇に指先で触れる
「こっちの方がかなり勇気が入るんだが」
夏未は悔しそうに鬼道を睨む
「…今は、全然そう見えないわ…ずっと躊躇っていたくせに」
「やはり、挑発したな」
鬼道は「引っかかった」と言わんばかりにニヤリとする
この際、自分がぐずぐずと悩み通して胃まで痛めたことは棚上げらしい
「…し、してないわ!」
「一度その領域に踏み込んでしまえば、あとは簡単だ」
最もらしくそう呟くと、鬼道は優しく夏未の頬に口付ける
「…現金ね」
鬼道がもう片頬に口付けた時、夏未は嫌味を言ったが相手には何の効果も無いようだ
「ずるいわね」
「男なんてそんなものだ」
そう言って鬼道は再び夏未の唇に自分のそれを重ねる
しかしそれは限りなく優しい
木の下に届く、仄暗い灯りのように
どうかためらいなく
by確かに恋だった