▼切ないこの気持ち、それは少しずつ淡い想いに変わっていく
鬼道の元から走って戻って来た夏未は、秋が何やら落ち着かない様子で居ることに気が付いた
タオルを握り締めて、誰かを捜しているようにも見える
そう言えば、豪炎寺の姿が見えない
恐らくは手洗いにでも行っているのだろう
ふと見れば、鬼道の元に豪炎寺が姿を現していて、それを秋も発見したようだった
秋がまだ未使用のドリンクボトルを手に取った時…
「豪炎寺くーん、鬼道くーん」
と声がして、女子が手を振っている
一端は歩きだした秋が躊躇して足を止めている
その横顔が寂しそうな、悲しそうなものだったので、夏未は思わず秋の傍へと歩み寄った
「木野さん」
「え?」
「豪炎寺君、水分取ってないみたいよ、持って行った方が良いんじゃないかしら」
「…そ、そうかな」
「もうすぐ休憩時間も終わってしまうわよ」
「そうね、…うん」
秋がこんな素振りをするのは珍しい
夏未は歩き出した秋の後ろ姿を見詰めながら、ふと思う
木野さん、って…もしかして
秋が豪炎寺と鬼道の元に到着するのと同時にまたもや女子から声援が飛んだ
休憩時間まであんな風に名前を呼ぶなんて、どういうつもりかしら
泣いたからだろうか、それとも秋に自分と鬼道のことを話したからだろうか…ともかく先日の様などうしようもないイライラは無くなったものの、やはり気分の良いものでは無い
鬼道に向ける声援が無くなったなら、どんなに良いだろうか、と思わず思ってしまう
或いは、わたしが
私が、なに、…かしら
一瞬過ぎった思いに夏未は戸惑った
しかし、夏未は敢えて、その思いを心の中だけで言葉にする
私が鬼道くんの婚約者だと、みんなが知ったら…
ずき、と胸が痛い
穴が空いてしまうのでは無いだろうかと、思う程の胸の痛みは夏未を支配して、そしてそれは切なさという名の元に淡い想いに変わって行くのだ
ああ、そうなのね
バタバタと秋が走って来る
「どうかしたの?」
「豪炎寺くんが一気飲みを…もう一本欲しいって…」
ドリンクを掴んで戻って行く秋を見詰め、更にその先に居る豪炎寺と鬼道へと目を移す
鬼道は立ち上がって豪炎寺の元を離れ、此方へと歩いて来る
立ち上がった豪炎寺の顔が赤いことに、秋は気付いているのだろうか
ぎくしゃくとしたその仕草と嬉しさを隠しきれない様子
きっとそれは秋の前でだけしか出さないのだろうが、肝心の秋は全く気付いていない
「面白いな」
ふと声を掛けられて声のした方を見ると、鬼道が傍に立って居て心臓が跳ね上がった
「そんなこと、…言うものじゃないわ」
やんわりとたしなめて、夏未は豪炎寺達を眺めている鬼道の横顔を見詰めた
「あの豪炎寺があんなだぞ…ま、人の事は言えんが…」
「え?」
「いや、何でも無い…他の連中が気付いてないのも面白いな」
「…何とかならないかしら?」
「こればかりはな、本人達次第だろう」
「……そう、…そうよね」
本人達次第、と言う言葉に何か重い響きを感じて、夏未は思わず俯いた
「…俺達も…」
「え…ッ」
「いや、…」
そう言葉を濁して、鬼道はさっとその場を離れ、円堂達の元へと行ってしまった
後に残された夏未はその場に立ち尽くす
心臓だけが大きく鼓動して、足に根が張ったように動けなかった
「今日は、本当に焦ってしまったの」
使用済みのドリンクのボトルを洗いながら、夏未は苦笑いする
「円堂君、何も考えてないから」
「そうなのよね…でもあの言い方じゃ、まるでずっと2人っきりで勉強してたみたいじゃない…?き、」
夏未は一端口篭るが、思い切って口を開く
「…鬼道くんが後ろのベンチで聞いているのに…」
「うふふふ、夏未さん可愛い」
「かッ…可愛くなんてないわ、ただッ」
夏未は勢いを無くして、小さく呟いた
「ただ、誤解されたくなかったの…」
「…誤解、されてなかった?」
「ええ…大丈夫だったわ…分かってるから、って言ってくれたの…ふふ」
夏未の嬉しそうな声を聞きながら、秋は微笑ましい想いで水道の蛇口を捻ろうと手を伸ばした
「でも、木野さんも、豪炎寺くんのことが気になるのね」
ジャアアアアアアアアアアアア―――――ッ
物凄い勢いで水道を出す秋を夏未は驚いて見詰め、呆然と自分を見詰めている秋に声を掛ける
「き、木野さん???」
「えッ!あ!やだ!!!」
きゅっと慌てて水を止めると秋は真っ赤な顔で夏未に歩み寄った
「ど、どうして分かったの???」
「えッ…それは…何ていうか…見ててそう思ったから…かしら…」
「……」
「私と、同じだな、って…」
「夏未さんも?」
「……わたし、分かったの…」
夏未はかあっと顔を赤らめて、呟いた
「好き、かも知れないって…鬼道くんのこと」
「そっか…良かった…」
「え?」
「ようやく気付いたみたいね?」
「木野さん…」
「本当、良かった!」
「ごめんなさい、…ありがとう」
2人は笑い合って、再び作業に取り掛かる
「あ、そうだ、帰りに包帯とシップ、買いに行かなくちゃ」
「私も行くわ」
「大丈夫よ、一人で」
「ううん、一緒に行きたいのよ」
「じゃあ…一緒に」
「ええ」
夏未と秋はボトルを洗う手を急がせる
其処へ春奈と冬花もやって来て、水道はいっぺんに賑わいを見せる
「私、ある情報を掴んだんですよ」
周囲に誰も居ないのに、春奈が声をひそめた
「なあに?」
何気なく秋が聞くと、春奈はうふふふ、と笑った
「どうやら今度、三年生の誰かがサッカー部の誰かに告白するつもりらしいんです」
「誰かって、誰?」
冬花が尋ねると「そこまでは…」と春奈も言い淀む
じゃばじゃばとドリンクボトルを濯ぎながら、夏未はやや堅い表情で春奈へそっと目線を送る
「凄い情報収集能力ね」
冬花が褒めると、春奈は
「元新聞部は伊達じゃないですよ」
と笑った
「秋さん?」
冬花に声を掛けられて、秋はハッとして慌てて笑みを向ける
「さて、これで終わりね」
洗われたドリンクボトルを片付けると、夏未と秋は買い出し、、春奈と冬花は帰宅の途についた
夏未も秋も何となく重い気持ちで買い出しを済ませる
「じゃあ、夏未さん」
「…ええ、…」
お互いに言いたい言葉を呑み込んでいるような感じに耐えられず、夏未は秋に
「大丈夫よ」
と言葉にする
すると秋も
「夏未さんも、大丈夫よ」
と言葉にしてくれた
そう、今は、大丈夫だ、と言って貰いたかった
それが例え何の根拠もなくとも…