▼それは特別な気持ちなのに、どうして気付かないんだろうか
それはとある日曜の昼間…3度目の会食の場での事だった
会話の中で、夏未の事を『雷門さん』と呼んだ鬼道をたしなめるように鬼道氏は言った
「有人、いつまでもそんな他人行儀な呼び方では却って失礼ではないのかね?」
「えッ」
思わず鬼道は夏未を見詰め、夏未も鬼道を見詰めてから、頬を染めた
その表情の変化にドキリと心臓が疼く
「そ、そうですか…そう、…ですね…もし雷門さんが嫌でなければ…」
その言葉を聞いた総一郎は嬉しそうに鬼道に頷き、夏未へと視線を送る
「どうだい?夏未…夏未も鬼道君を有人さんと呼んで差し上げたら」
「ぇ…あ、…は、はい…」
益々顔を赤くする夏未を見て、鬼道は心を決める
「では、夏未さん」
「!」
「少し2人でお話しませんか」
「!!」
「どうでしょう」
「………はい」
席を立った2人の後ろ姿を非常に満足気に眺めながら、総一郎は声を弾ませた
「非常に良い感じですなあ鬼道さん!!」
「全くその通り、あの様子ですと、お互いにお互いを意識しまくってますな!」
「どうでしょうここらへんで学校全体にバラすってのもまた障害を乗り越える感じで…」
「おおお?しかしそれよりも2人で居る所を不良にからまれちゃったりなんかするのもまたオツではありませんか?」
「なんと!なんと良いアイディアでありますな!!!」
壊れかけたオッサン達の妄想は果てしなく続くかと思われたが…
ガタンと一緒に勢い良く席を立つ
「何を話しているのか気になりますな鬼道さん!!」
「全くです!!」
こそこそと2人の後を追い掛ける親馬鹿2人組であった
「何て事を言うんだ父さんは…」
「本当…困ったものね…」
はあ、と庭園を歩きながら、夏未は息を吐く
「父親達の前だけでは、ああ呼ばないといけないだろうな」
「そうね」
「……学校で誤って呼ばないようにしなければな…」
「………ええ」
あの一件以来、表面上はいつもと何ら変わらない2人ではあった
学校でいつものように接し、互いの父親の報告をし合う
しかし、心中は決して穏やかでは無かった
一度は掴んだ距離感が再び分からなくなり、どう接していいか、まるで分からない状態に陥る瞬間がある
その瞬間とは――……
視線、そう視線なのだ
誰も、彼もが雷門を目で追って、振り返る
男子生徒なら大抵のヤツがこそこそと噂して、憧れの視線を送っていることに今更ながら気付くとは
ほら、今だって雷門が廊下をこちらに向かって歩いて来る
雷門が通ったすぐ傍で、あいつも、あいつも、振り返ってこっそり後ろ姿を見ているんだ
「お前滲み出てるぞ」
「何が」
「気付いて居ないのか鬼道有人ともあろう者が?」
にや、と含み笑いした豪炎寺に言い返す事も出来ず、鬼道はただ、夏未が歩いて来る方向を見詰めている
「やきもち」
「俺が?まさか」
「お前いい加減認めたらどうだ」
「何を認めるんだ」
「この間嬉しくて笑っていたろう」
「あれは、あれは違う!」
「開いた口が塞がらないな」
「鬼道くん」
「ぅえッ?」
ぶっ、と吹き出す豪炎寺に背中を向けて、鬼道は夏未に向き直る
豪炎寺は気を効かせたのか、そのまま数歩後ろに下がって窓の外なんかを眺めている
「練習試合の件だな」
「そう、テスト明けの1週間後で決まったわ…だから、この日」
夏未は自分の手帳を見せて、カレンダーを指で指し示す
「それから…」
急に小声になった夏未の頬がぽ、と赤くなった…それは頬にかかる髪に隠れてしまったが、確かに鬼道はそれを見た
つ、とカレンダーを指していた指を移動させて、ある日曜日を指し示す
「了解した」
「では宜しくね」
事務的な言葉を交わしたように見せかけて、夏未は3度目の会食の日を提示して来たのだ
思わぬやりとりに、口角が上がる
恐らく理事長に、『鬼道君には夏未から伝えるように』と言われたのだろう
「お前背中に花でも背負ってるみたいだぞ」
「なに」
「雷門と話すまでは殺気立つオーラを飛ばしまくってたくせに、現金な奴だな」
「………嘘をつけ」
「俺は嘘はつかんぞ」
くっくっく、と笑う豪炎寺を恨めしそうに見詰める鬼道だが、周りの男子の自分に向ける視線が羨望の眼差しである事に気付く
その眼差しを受けるのはとても気持ちが良い…
「お前満足そうだな」
「まさか」
「しかし驚いたな…」
「絶対言うなよ、学校中に知られる訳にはいかないんだ」
「本当か?」
「なに?」
「本当は…知られたいと思ってないか」
豪炎寺の一言に、鬼道は一瞬まばたきを忘れた
「そんな事、ある訳無いだろう!!ある訳!」
「怪しい」
「怪しくない!いくら豪炎寺でも許さんぞ!」
「分かった分かった…でもきちんと言葉で伝えなければダメだぞ」
「何をだ?」
「呆れて言葉が出ない…」
はあ…と溜息を付く豪炎寺を、鬼道は不服そうに眺めるのだった
サッカー部の部員達は非常に女子から人気がある
それは周知の事実だし、今更それをどうこう言うつもりはない
誰がどんな風に部員達を応援するのかは自由だと思うし、私がとやかく言う権利も無い
そうよ、無いのよ
けれどあれはちょっと、うるさいと思うの
だってそうでしょう?
練習が始まってからずっとよ…ずっと応援し続けて、声が枯れちゃうわよ
ちゃんとした応援なら腹も立たないわ
でも名前を連呼し続けるってどういう事なの?
「ねえ?木野さんそう思うでしょ?」
両手を握り締めて振り返った夏未を、きょとん、とした表情で秋が見詰めている
しまった、さっきのは全部頭の中で言っていたのだったわ…
何も知らない秋に、こんな事言える筈もなく、夏未はやり場の無いイライラに苛まれていた
「風丸くーん!!」
「豪炎寺さーん!!!」
「きゃー円堂くーん!!」
「鬼道さーん格好イイー!!」
鬼道を応援する声だけ一際大きく聞こえるのは自分の気のせいなのだろうか?
唇を噛んで必死に耐える夏未の横顔を見詰め、秋は恐る恐る声を掛ける…
「夏未さんどうかした?」
「………ッ!!」
無言でふるふると首を振る夏未にそれ以上何も尋ねる事も出来ずに、秋はそっとその横顔を見詰める
泣きそうなその顔で、いったい誰を見詰めているんだろうか
「鬼道クーン!!」
びく、と肩を震わせた夏未が俯いた
ハッとした秋が見ている傍で夏未は顔を両手で覆い、次には、キッ!と顔を再び上げて身を翻すとバタバタと走って行ってしまった
「夏未さんどうしたんでしょう」
冬花が心配そうな顔をしている
秋は「行ってくる」と言い夏未の後を追いかけた
果たして、夏未は人気の無い裏庭に居て、しゃがみ込んで居た
「夏未さん?」
振り向いた夏未はぽろぽろと涙を流していた
「耐えられない…」
「え?」
「この、たまらなくイライラする感じ…」
秋は優しく夏未の背中を撫でると、ゆっくりと慎重に言葉を選んだ
「鬼道君にもその泣き顔見せてあげたいね」
「だ、ダメよ!」
ふふ、と笑った秋を見て、夏未ははっとして俯いた
「好きなの?鬼道君のこと」
「わ、分からない…ただ、ただ…あんな風に、誰かが鬼道君を応援するのが、わたし…」
黙って、秋は夏未の言葉を聞いてくれている
そんな秋に向かって、夏未は口を開いた
「木野さん、私ね…」
「え?」
心を軽くしたかった
誰かに知って欲しかった
この方法が適切かどうかなんて今はどうでも良かった
ただこの重りのように心にのしかかる訳の分からない感情を、どうにかしたかった
「…それ、本当?」
「ええ…本当…でも私、どうしちゃったのかしら」
「え?」
「自分の感情とどう折り合いを付けたらいいのか全然分からないの」
「…夏未さん」
「前はこんな風に取り乱すなんてこと無かったのに」
「そ、れは…」
秋は迷う
言ってしまっていいのだろうか
本当は自分で気付いた方が良いのでは無いだろうか
もどかしく思いながらも、秋は優しく夏未に寄り添って、ただ夏未の気持ちが落ち着くのをじっと待つのだった
『知られたいと思ってないか』
豪炎寺の言葉が脳裏に蘇った
そんな訳無いだろう、そんな
立ち止まった鬼道に夏未が声を掛ける
「鬼道くん?」
「ぁ…いや」
しかし何かが鬼道の胸に、差し迫る
「………雷門」
「?」
「その、やはり学校でも2人の時は呼んでいいか」
「え?」
「名前で」
「……!」
カッと赤くなった夏未に、鬼道は慌てて付け加えた
「雷門は呼びやすいように呼んでくれて構わない」
「………」
「ダメだろうか…?」
慌ててふるふると頭を振る夏未を見詰め、鬼道の胸に嬉しさが満ち満ちて来る
特別なことを許された
自分は、特別、だからなんだろうか
そう思っても良いのだろうか
それは夏未の方も同じで、恥じらいながら嬉しさを隠しきれない
それを望んでくれる、なんて
貴方の方から―…
名前の呼び方ひとつでどうしてこんなに嬉しいんだろう
そんなことを思いながら、鬼道と夏未は再び歩き出した
そんな2人の様子を、2人以上の喜びで打ち震えながら…見つめていた父親達の存在に鬼道も夏未もついに気付かなかった