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 明日、化粧して

 目が覚めたように明るく点いた携帯電話の画面に、届いたメッセージがそのまま表示されていた。タオルケットの中で遊泳してた手足をぐぐっと伸ばして、息を深く吐く。深く深く吐いて、胴体を薄っぺらくしぼませてから、つるつるする画面をなぞった。メッセージを返信して、アドレス帳を開いて、閉じる。
 まだ確かにならない頭を振りながら起き上がった。土曜日の午前中はこんなにも明るい。いい加減に遮光カーテンを買おうかな。と思いながら、奥のほうで沈黙する化粧ポーチを引っ張り出すために押し入れの戸を引いた。
 約束の時間の十五分前に、玄関のドアがこつこつ鳴った。インターホンが壊れてから、もう二つと半分の季節が過ぎた。管理会社の電話番号を調べるのも億劫でそのままになっている。クッションから飛びあがってドアを開けば、シフォン生地の膨らんだ胸がまず目に入った。おはようを言うために顔を上げると、大きなマスクの上の目がきびしい角度で吊り上がっていた。
「あのさあ、覗き穴確認した?」
「してないよ。ちゃんと時間通りに来たじゃん」
「物騒だって言ってんの。危ない人間は時間関係なく来るんだからね」
 正しいことでもって怒られると、首のあたりが縮こまる思いがする。ごまかすためにへらへら笑いながら招き入れると、不服そうな足音でパンプスが踏み込んできた。初めて見るデザインだ。水色のエナメル質。夏っぽくて良い。ロングスカートもカーディガンも薄手の素材で、部屋の奥に進む短い距離でひらひらとよく揺れた。わたしよりまるまる二つ高いところにある頭から長い髪がなびく。水が流れるようだった。
「お、ねえ、ちゃん、水飲む?」
 コップを手に聞くと、ローテーブルの前に座ったお姉ちゃんにつまらなそうにうなずかれる。お茶くらい作り置けと言いたがっているんだろう。無いものは無いのでただの水道水を置いてあげると、マスクを外して一気に半分くらい飲んでしまった。
「外、暑かったんだ」
「超、暑かった」
 バッグからハンカチをとりだして額にあてているけれど、それほど汗をかいているようには見えない。昔からそうだ。人並みに暑がっているけど見えるところにあまり汗をかかない人だった。残りの水を飲み終えたころには、すっかり涼しい表情に見える。
「じゃあ、やるよ」
 コップを置いて、お願いします、とかしこまって言う顔は、まだ、男の顔だった。
 わたしは、今日だけは、この人をお姉ちゃんと呼ばなくてはいけない。年に何回か、化粧を頼まれる日だけは、にをねに変えて発音しなきゃいけない。下地を塗り込む段階ではお兄ちゃんそのものだから、気を紛らわすための雑談に気を遣う。間違えると隙だらけの腹に手刀が打ち込まれるので用心する。ベースが整って、まつげを上げてあげて、ようやく気分が馴染んできてスムーズにお姉ちゃんと呼べるようになる。
 この変身の意味をわたしは知らない。兄妹の妹というのはたいへん力の弱い立場なので、上からのお達しには流されるほかないものだ。初めこそいろいろ聞いたけれど、関節をきめられながら「人に会う」とだけ言われた。肩の痛みに転げながら盗み見たお兄ちゃんの顔で、それだけで十分だった。四か月後、また化粧して、と連絡が入った時に、スカスカだった化粧ポーチを膨らませて、雑誌を立ち読みしに行った。
 女になって男に会いに行くのか、女になって女に会いに行くのか、本当は女になってなんかいないのか。わたしには何にもわからない。わからないままお姉ちゃんの瞼をなぞって、目を大きく大きく見えるようにしていく。ポーチの中から未開封のマスカラを取り出す。お湯で簡単に落ちるのに涙で落ちないっていうのはうそだと思う。心が溶け込んだ涙はお湯に匹敵して熱いもんだ、なめるな、と思いながら、落ちにくいって評判のそれを選んで買ったんだ、昨日。
「新品じゃん」
「そうだよ」
「使い古しでいいのに」
「古いのなんてもうかぴかぴに乾いちゃってて使えないよ」
「自分でもちょっとは化粧しなさいよね」
 そう言って笑ったお姉ちゃんの目から力が抜けるまで、ブラシを容器に出し入れして待つ。化粧がなんだ。わたしはお化粧をして幸せになっている人を見たことがない。まつげを延ばして、頬と唇に血を通わせて、眉毛をしかるべき形にして、完成したお姉ちゃんの顔。前髪を留めていたクリップを外してあげると、お姉ちゃんは深く息を吐いた。
「鏡、見る?」
 一応聞いてはみるものの、首は横に振られる。一度だって鏡を望まれたことはない。わたしがとんでもない処置をしていたらどうするつもりなんだろう。せめてこの後の約束の人に会う前に、駅のトイレかどこかで確認してほしいな、と思う。そうして、気に入らなくて、こんな顔じゃ会えないなんて落ち込んで、約束なんかぶっちぎって帰ってきてくれればいいと思う。きっとクレンジングだってわたしがやったほうが上手だから。一回やってやろうかな。もう化粧なんかしないって、言わせるくらいのすごいこと。
 わたしが化粧品をすべて片づけるのを見届けて、お姉ちゃんはすっと立ち上がった。もう行くの、と聞くと、うん、と短い返事が降ってきた。きれいな女の人は、来た時と同じ、流れるような足取りで玄関まで行き、大きな足をパンプスに詰め込む。制汗剤のフローラルブーケな香りがした。
「じゃあ、行ってきます。ありがとな」
 笑顔のお兄ちゃんが、わたしの頭を二回たたいて出ていった。その手に遮られながら見た色の濃い唇が、閉じたドアの何もない空白に焼き付いてみえた。返ってこない。わたしが付けてあげたのに、ちっともわたしのところに返ってこない。口紅だけは、お兄ちゃんに一番似合う色を見つけたから、買い替えないでずっと持っている。マスカラはきっとだめだろう。もしわたしが今つけていたって、すべて落ちてしまうだろう。技術の進歩に期待して、次にお姉ちゃんから連絡があったらまた新しく買ってやろう。
 二つのコップを流し台に置いて、化粧ポーチを押し入れに放り込んで、ベッドに潜った。頭までかぶったタオルケットの中で、携帯電話のアドレス帳を開く。昨日の朝変えた登録名を姉から兄に戻して、目をつぶった。いい加減、遮光カーテンを買わないと。


―――

百人一首アンソロジー
さくやこのはな
(http://sakuyakonohana.nomaki.jp)
参加作品

〇四四(中納言朝忠)
逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし




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