アイネクライネ1

 当直交代の数時間前、街がにわかに起き始めた時刻。羽田航空基地の電話が鳴った。

「はい。海上保安庁、羽田航空基地です」

 五十嵐が受話器を取ると、何度かの相槌と挨拶があった後、彼女の表情が曇った。その後も「ええ」「はい」と返事をしたり、いくつかのやり取りを終えると、ゆっくりと受話器を置いて無気力に下を向いた。

 少しの間の無言。整備士が「機長、誰からですか?」と聞きづらそうにしながら声をかける。

「……波乗りが、昨夜亡くなったそうです」

 重く口を開いて、ゆっくりと言葉にしたそれは、静かな早朝の眩しささえも煩わしく思えてしまいそうだった。

 力なく椅子に座り込むのは五十嵐だけではなく、他の職員も一緒だ。

 波乗りがここを去ってから二週間。たった二週間だった。

 「せめてヒヨコの研修が終わるまでは」と、そう言っていた。だが思ったよりも病状が悪いと、ゴールデンウィーク前にその任を下りた。というより、下りざるを得なかったのだ。

 五十嵐は仲の良い同僚として、その時の波乗りの無念を知っていた。決して弱音を口にはしなかったが、彼女の表情や仕草はここから離れがたいと語っていた。だからこそ、彼女を知っているからこそ、信じられなかった。

 見舞う予定を立てていた矢先のことだ。

 しばらくの沈黙。おそらく各々が、頭の中で様々な思いを巡らせているのだ。

 五十嵐が椅子から立ち上がると「この件は私から基地長に伝えます」と、どこを見るわけでもなく言い放って部屋を出た。




アイネライネ




「もうすぐ戴帽式だね」

「なんか、あっという間じゃったのう」

「そうだなー。もうすぐこうやって、毎日みんなで揃って出勤することもなくなるんだな」

「寂しーとか言って欲しかと? オイは早くヒヨコなんか卒業したいっちゃんね〜」

 今朝は眩しい。そう感じるほど空は青く晴れ渡っている。こんな日はよく、波乗りさんのことを思い出した。

 晴れた空はまるであの日のようで、彼女とのやり取りを思い返すと胸が苦しくなる。

 そんな時は気を紛らわすように、歌を聴いた。その歌を聴いて、その情景に自分と波乗りさんを重ねて、やり取り全てに意味を持たせたかった。

 それで終わりにしたくないし、続きがあると、希望を持ちたかったから。

 曇りや雨よりも気分は良いはずの空なのに、なぜか今日は気が重い。そんな思いを拭えないまま、ミュージックプレイヤーを停止させると基地の扉を開けた。

「おはようございます」

 シンと。

 いつもならいくらか賑わっている基地内が、誰も挨拶を返さないほど重く静まり返っていた。どうかしたのかと発することさえも躊躇されるこの空気に、次いで口を開くことはできない。

 ただ、オイ達が来たことでその空気を少し緩ませたのか、他の隊員達はゆっくりとそれぞれに散っていった。まるで止まっていた時間が、少しずつ動き出したようだった。

「……ヒヨコ隊、全員集まったか」

「はい」

 軍曹がオイの後ろの方へと視線をやり、後ろに立ちすくんでいた三人に近くへ寄るよう手招きをした。それに従い、四人揃って軍曹の前に立つ。

 隊員達が散っていったせいか、再び静かになる。その静けさが、なんとなく気に食わない。もったいぶられているような、そんな気にさせる。

 軍曹はぐるりとオイ達の顔を見渡すと、ぐっと唇を引き結んでから、ゆっくりと口を開く。が、声はない。その内視線は下へ向いて、再びその口は閉じられてしまった。

 問うことも、その場から動くこともできなかった。

 デスクに座っていた真田さんが、目元を押さえていた手を下ろしてこちらを見ると、低く、小さな声を発した。

「シマ」

「はい。すみません」

 視線をそちらに向けるわけでもなく言葉だけで、何に対してなのか分からない謝罪を伝えると、ゆっくりと大きく息を吸う。

「波乗りさんが……昨夜亡くなったそうや」

「え?」

 そう口から出たのは、兵悟君とタカミッちゃんだった。

 たった一言に、脳が急速に動く。

 軍曹は、何言うとるとか? まさか。だって、波乗りさんがここからいなくなったのは、たった二週間前だ。

 定置訓練から洋上訓練に移り波乗りさんが担当になって、事あるごとにちょっかいかけてきて、「ましま」で退職すると聞かされて。それからゴールデンウィークまで少しの間、訓練には波乗りさんがいてくれた。そして波乗りさんがいなくなって、訓練が終わって、オイ達はゴールデンウィークを迎えた。

 ここから去って行くあの日、顔色は良くなかったがそこまで具合が悪そうではなかったのに。本人も、辛いとは言わなかった。

 やっとゴールデンウィークも終わって、雨の行軍で全部むけてしまった足の裏も治ってきて、延期された戴帽式も目前だったのに。

 やっとあの人の前で、オレンジを見せつけてやることができると思ったのに。それでまた、笑ってもらえると思ったのに。

 自分の考えが、甘かったのだろうか。

「嘘や、ないとですか」

 嘘であって欲しい。と思う反面、空気が真実味を帯びていることは分かっている。

「ッ、嘘や冗談で!! こんなことが言えるか!?」

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