「ただいまー、っと」


生まれて初めての長い長い夏休みが明けたはええけど、休み前と変わらんと朝から晩まで講義詰めで嫌気がさしてまう。今日も、本屋で教授指定の学術書探しとったらあっちゅう間に真っ暗。

せやけど、真っ暗な空の下で、自分ちの灯りが点いとるのを確認できると、なんや安心することに最近気付いた。玄関の扉を開けたら、部屋中に夕飯のええ匂いがしとるんも、また。


『あ、謙也おかえりなさい』


匂いに誘われるまま、上着も脱がんとキッチンに足を運んだら、今日の夕飯当番である名前が絶賛準備中。髪を一つに結んで、赤いチェックのエプロンをつけてキッチンに立つ名前の姿に、将来の理想の家庭像が見える気さえしてくるから不思議っちゅうもんや。


「ただいま、今日の夕飯なに?」
『えーとね、パンプキンシチュー』
「ん、どうりでええ匂いしたわ」


もう少し煮込めば出来るよ、と両手鍋の蓋を開けて見せる名前の顔は至極得意げで、今日の料理の出来栄えは上々なんやろうことが窺えた。鍋の中身を覗きに、キッチンの一番奥にあるコンロの方へと身体を滑り込ませる。


(お、にんじんが星さんや)


コトコト、なんて擬音がぴったり合うくらいの火加減で煮込まれとるシチューを眺めとったら、早う食べたいとばかりに音を鳴らして反応する俺の腹。せやかて、目の前でこない美味そうなモン見せられたらなんぼなんでも敵わん。名前には聞こえてへんようで、一安心。

チラリ、隣の作業台で料理をする名前を覗き見る。名前の手元には、シチューに添えるサラダになるんやろう生野菜たちが下ごしらえされている最中。作業自体は手慣れとる、っちゅうわけちゃうけど真剣で、そんでもって鼻歌なんかも交じらせて楽しそう。


(‥大丈夫、なんやろか)


隣に並ぶ名前の姿に、ふと、先日の加藤の件を思い出す。細い手足、白い首筋、華奢な肩幅。女の子っちゅうだけでこない繊細やのに、肝心の名前言うたら男っちゅうモンに対して警戒心すら持っとらんなんて。まぁ、もし持っとったら、見ず知らずの男を二人も家に住まわすなんて有り得へんかったんやろうけど。

だいたい、加藤のことかて、襲われかけといて"いい人なんだよ"言うて庇いよった。たまたまユーシが居ったから事なきを得たっちゅうのに、名前はお人好しが過ぎる。それか、誰にも警戒せんでええくらいに、周りに大事にされてきたんかもしれへん。ああ、白石とか跡部とか見とったら、後者の方がしっくりくるわ。


『‥っ!え、ちょっ、‥謙也?』


その細い肩を俺の腕の中に収めるように、名前を後ろから抱き締める。驚いた名前の身体は瞬時に硬直しよったけど、そんなん関係あらへん。俺も、名前を守りたい。この存在を、大事に大事にしたい。そう思うたら、身体が勝手に動いとった。


「‥名前は、俺が守ったるから」
『うん?あ、ありがとう』


何のこっちゃ分かってへんような名前の返事。せやけど、それでええ。これは俺の決意。名前がどない思うかはどうでも、っちゅうのは言い過ぎかもしれへんけど、今はまだこれでええねん。

腕の中の温もりが愛おしゅうて、首筋に顔を埋めたら、名前の香水の微かな香りが鼻先をくすぐる。名前の肩はまだ少し強張っとるけど、俺の腕を振り払うこともせぇへんから、こうしとくことを許してくれとるんやと思う。


『‥謙也、』
「‥ん?」
『こ‥これ、いつまで、しとくの?』


俺のせいで作業が止まって、手持ち無沙汰になった名前の手が、俺の頭をぽんぽん撫でる。俺からは名前の顔は見えへんけど、触れとる肌の温度がほんの少し上がっとるとこを見ると、緊張でもしとるんやろか。

そない可愛えとこ見たら、少し意地悪したなってまうんが男のサガっちゅうモンなんやけど、そないなことも名前は知らへんねやろな。


『ひゃ!ちょ、けっ、謙也ってば、』
「んー、もうちょいこのまんま」
『だめ、くすぐった、い‥!』


肩に腕を回したまま、小ぶりな名前の耳たぶを柔く甘噛みしてみたら、なんとまぁええリアクション。名前は意地悪のしがいがあるから飽きひん。こそばゆさに身動ぐとこも、必死に俺の腕を解こうとするとこも、ああホンマに可愛え。


「こら、キッチンで盛ってんなやアホ」


不意に背後から聞こえた、耳馴染みのあり過ぎる声。それに次いで、シャツの襟を後ろに引っ張られて強制終了。そない強う引っ張ったら苦しいやろが。

せっかく名前の可愛さ噛み締めてスキンシップはかっとったんに、少しは空気読めやアホ眼鏡。


『お、おかえり、侑士』
「大丈夫か名前、怖かったやろ」
『だいじょぶだよ、だって謙也だもん』


意外にもわりかし真面目なトーンのユーシに、びっくりしたけどね、と笑顔で返す名前。その言葉は喜んでええんかどうか微妙なとこやけど、まぁ嫌がられてへんかったっちゅうとこは安心しとこ。

俺の方を向いたユーシの瞳の奥には、少し怒りの色が見えよる。先日あないなことがあったっちゅうのに何してんねん、と言わんばかり。いくらユーシとは言え、心も閉ざさんとそんだけ感情むき出しにしとったら、何も言わんでも分かる。んなこと分かっとるわボケ。


『さ、侑士も帰ってきたし、ご飯にしよ!』


いつもと変わらん名前の一言に、ユーシが溜め息を一つ漏らしてキッチンを後にする。そういや俺も、帰ってきてから上着も荷物もそのまんまやったことに、そこでやっと気付いた。

名前を見たら、止まっていた作業を再開して、サラダを盛り付けとる。まるで、さっきのことは何もあらへんかったみたいにも見えるけど、それでも俺の決意は変わらへん。


『ほら、謙也も早く着替えてきたら?』
「おう、早よ名前渾身のシチューぎょうさん食べなな」


俺がそう言うたら嬉しそうに笑う名前。その笑顔のために、俺にできることやったら何でもやったろうと心に誓うて、部屋に戻った。











(おかわり!)(謙也、ちゃんと噛んでる?)


−−−

自分が一番に駆け付けたかった謙也くん。



back

- ナノ -