この放課後は、いつもとは違う特別なものになる。自分がこれから何をするかも分からないまま、顔も名前も知らない先輩に教室に呼び出される。平穏な中学校生活を送っているはずだった私には到底有り得ない出来事が、今まさに起ころうとしている。

帰宅部の私には知り合いと呼べる先輩は居ないので、上級生の教室に行くことには慣れていない。一応、地理的な感覚としては分かるけれど、自分の学年ではない教室付近を歩くには何となく場違いに思えて、なるべくなら歩くことすら避けたいくらいだ。


(3年H組‥‥あそこか)


クラスメイトが言っていた、目的の教室の看板を見つける。そこに行くとファンクラブの先輩がいて、今後の役割分担やら何やらの引継ぎをされるらしい。もうホームルームは終わっているようで、部活に行く人や帰る人、たくさんの上級生とすれ違う。

ところで、私には荷が重すぎるからと言って辞退することはできるものなのだろうか。何よりもまず、ついこの間まで知らなかった先輩のファンクラブに勝手に入会させられたばかりか、入っていきなり役員を担うだなんて重責すぎやしないだろうか。勢いに押されてここまで来てしまったけれど、今更な不安が一気に押し寄せてきて、目的地を前にして足取りが重くなる。


「おっ、と‥」
『‥あ!すみません、ボーッとしてて!』


とうとう辿り着いた教室の扉の前。入るタイミングをうかがっていたら、突然扉が開かれて、向こう側に居た人とかち合う。幸いにもぶつかることはなかったけれど、私が通せんぼをしたような形になってしまったので、慌てて頭を下げた。

下げた視界の中に相手の上履きが入って、思わず目を疑う。その上履きに書いてある名前が、最近よく耳にする名前そのものだったのだ。そこで初めて、この教室が彼のクラスだったことも思い出す。


「かまへんかまへん、気ぃつけるんやで」


初めて耳にしたその声は、優しい重低音。そして、想定外の関西弁が特徴的だった。機嫌を損ねていないことに胸を撫で下ろしながら視線を上げると、この前、教室から見た時と同じ、柔らかな笑みを浮かべる忍足先輩が、目の前に居た。

こんなに近い距離で忍足先輩と会うことなんて、きっとこれから先にはないだろうから、今このまま時間が止まってしまえばいいのにとすら思う。だからと言って、このまま通せんぼを続けるわけにもいかないので、慌てて扉の裏側に避けて道を譲る。


「‥あれ、自分、」
『え?』
「こないだ、教室から見とった子ぉやんな?」
『‥‥!!』


道を譲ったにも関わらず、なかなか歩き出さない忍足先輩。それどころか、私の真横にある扉に腕をついて距離をじわじわと詰めてくるから、逃げ場がなくなってどうしようもなくなる。自分の顔、そんなに眺めるほど面白くもないと自負しているんだけれど、ここまで楽しそうな表情で見られると自信がなくなる一方だ。

しかも、私が教室から先輩を見ていたことに気付かれていたという事実に、羞恥心が一気に押し寄せてくる。先輩の言葉をすぐに否定すればそれで話が済んだかもしれないものを、分かりやすく反応してしまった自分のせいで、どんどん追い詰められている。でも、返す言葉も見当たらない。


『え、と、あの、それは、』
「あぁ、別に怒っとるわけちゃうで」
『‥ほ、ほんと、ですか?』
「ホンマ、なんや熱心に見とるなぁ思うただけやから」


それだけ言うと、忍足先輩はその右手を私の頭に軽く乗せて、ほな、と去って行く。時間にしたら僅か30秒程度のやりとりだったのだと思う。それでも、私にとったら3分にも30分にも感じるような。忍足先輩に認識されていたことにも驚いたけれど、自分が思っている以上に忍足先輩に心動かされていることに気付かされて、まだあの手の感触の残る髪をそっと撫でる。

名前と顔を認識して、声と優しさを知り、そして、その裏にある目敏さを感じるまでに、たった数日。これ以上、その奥深くまで知ることになったら、私の心臓は持たないんじゃないかとすら思う。忍足先輩に深入りをしたら危険だ、と私の中の私が警鐘を鳴らす。

そして、私の直感は、あながち間違ってもいなかったことは、この時は知る由もなかった。










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